風の吹かない屋上で
「ほんとにここでいいの?」
あの後話すこともなくなったので俺はそろそろ帰ることにした。
遥はしきりに駅まで送っていくと言っているが、それじゃあ何のために家まで送ったか分からなくなるので門の前で失礼させてもらうことにした。
「ここまででいい。……ありがと、なんか遥のことちょーっとだけ分かった気がする」
「理解は求めてないけれど、聞いてくれるのは嬉しいわ」
「あぁ。……焼きそば、うまかった。また明日」
「また明日」
手を振って、覚えている道を逆に急いだ。高級住宅街に不審者が出るとは思えないが、それでも早足で家に帰りたかった。
少し歩いてから後ろを振り向くと遥の家の二階が見えた。
俺は目がいい。
明かりのついている部屋から、影がこちらを覗き込んでいたのが見える。
不気味だと思ったが、あの細いシルエットは遥の弟のたもとだろう。
たもとに俺が見えているかはわからないが、手を振ってみた。
振り返してはくれなかったけれど、誰かに呼ばれたようで影が消えて行ったのが見えた。
電車に乗っている間ずっと考えていたけれど、遥がああなってしまったのはたもとの影響だけなんだろうか。
それだけじゃ、ない気がする。
耳のおくでギターがかき鳴らす音楽が空虚に響く。
疑問を噛み砕くように音量を上げたけれど、それでも意識は遥のことばっかり考えていた。
ただいま、と母さんに言ったけれどどこか態度がよそよそしい。
当たり前だろう、帰りがこんなに遅いしさっきから美由紀がニヤニヤしている。
また変なことを母さんに吹き込んだな、あいつは。
「あ、お兄ちゃんどこいってたの?」
「美由紀には関係無いだろ」
「ええー、気になる。……あ、もしかして彼女?」
「ばっ、バカ言うんじゃねぇよ!」
お風呂上りの美由紀が髪の毛を拭きながら尋ねてきた。
美由紀はかなりモテるらしいのに付き合ったという報告は一つも無い。
俺に彼女ができないのとは違って、美由紀はあえて彼氏を作らないのだろうけど。
「お兄ちゃんもそろそろ彼女作ったらいいのにぃ……」
「それは美由紀もだろ。彼氏の報告は無いのかよ」
「いいなぁって思う人がいないんだよねー……あ、でもこの前すごくタイプの人がいたの!図書館に!」
「え、どんな奴なんだ」
まず美由紀の中でタイプの男がいるというのにびっくりした。
ちょっと前まで父さんに「みゆき、おっきくなったら父さんのお嫁さんになる!」と言っていた美由紀が、成長したもんだ。
「有名な高校のひとでね……あそこだよ、鍵桜高校の」
鍵桜高校とか知らないなぁ。と思いつつ相槌を打ちながら冷蔵庫に入っていたコーラをラッパ飲みした。
「なんか、すごくガリガリなの。肌もあたしより真っ白でさ」
「うんうんそれで?」
意識はどこか遠くに飛ばしたまま、コーラを飲み干していく。炭酸がキツイくらいが丁度いい。涙がにじむくらい。
「どっか壊れてる感じ。クスリでもやってんのかなぁって思うくらい」
「危険すぎんだろ、それ」
「あたしね、危うい人が好きなんだと思う。……あ、あたしにもコーラ入れて」
妹の特殊な趣味に内心ドン引きしつつ、適当に取り出したコップにコーラを注いだ。
しゅわしゅわと音を立てながら赤茶色のそれが透明を満たしていく。
「それからね。この前腕まくりしてたんだけど」
「うん」
「よく見ないとわかんないくらいの傷が、あったよ。手首に」
『たもとはある日私の目の前で手首を切って自殺しようとした』
「……マジかよ、今時そんなことやってるやついるのかよ」
手元が揺れてコーラがコップの外に少しこぼれた。あわててキッチンペーパーで拭き取る。
「美由紀もさ、そーゆー趣味やめてふつーのやつと付き合えよ」
心臓がうるさい。
黙れば、いいのに。
「危うい人が好きなんて、友達に言ったらヒかれんぞ」
そこまで言って俺はふと顔を上げて気づいた。
頭の上にタオルをのせた美由紀が限りなく無表情で俺を見つめていた。
中1のころに買ったパジャマのズボンの丈が短くなっている。
チビだチビだと思っていたけれど、ちゃんと身長は成長しているらしい。
ぱひゅん、となんとも小気味いい音がした。一瞬何が起こったのかわからなくて、気がつくと左頬がじんじん痛かった。
「お兄ちゃんなんて大っ嫌い」
美由紀の唇が動く。
それは美由紀の唇じゃないみたいに冷たくて、美由紀の唇じゃないみたいに恐ろしかった。
注いだコーラには見向きもせず、美由紀は俺に背中を向けると、二階の自分の部屋まで亡霊のように歩いて行ってしまった。