風の吹かない屋上で
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人間生きてりゃ辛いことのひとつやふたつはあると思う。
俺は数学と英語が強かったおかけで勉強ではあまり苦労はしなかったし、親もあまりプレッシャーをかけてこなかったから楽な気持ちで受験期間を乗り切ることができた。
でもひとり、塾のその子は違った。
誰より早く塾にきて教室の隅で黙々と参考書を解いて、誰より遅く帰宅する眼鏡の女子だった。
顔はどっちかというと地味なほうで髪型もひっつめでお世辞にも可愛いとは言い難い子だった。
でも一度だけ、隣に座った時に落とした消しゴムを拾ってあげたことがある。
その子はいつもの仏頂面から途端に笑顔に変わり、ありがとうと言ってくれた。
胸が焦げ付くようだった。その笑みが嬉しくて、何度も反芻したのを覚えている。
その子が目指している高校は県内でも……いや、全国でも有名な高校で、中学受験に落ちた時からひたすらその高校に受かるためだけに努力してきたのだという。
自習室以外では姿を見かけなかった理由は、その子が塾で1番上のクラスにいるからだとも同時に理解した。
俺は結局その子と消ゴムの件以来全く話せないまま、受験を迎えた。
その年に塾で張り出された合格実績のポスターを見て違和感を覚えた。
あの子が目指していた高校が載っていないのだ。まだ載せていないだけじゃないかと思ったが、イヤな勘ほどよく当たるものだ。
その子が受かるためにひたむきに努力した高校は、合格の手を差し伸べてはくれなかった。
俺は、合格発表の後の塾の打ち上げに参加してひたすらその子の姿を探したけれど、結局その子はいなかった。
誰も、その子の話をしない。
俺は気になって仲のいい奴に声をかけた。
「なぁ、あの眼鏡のガリ勉の女子ってどーなったんだ?」
「……あいつなら高校に落ちて、自殺したってよ」
伏せ目がちに告げられた真実に俺の合格のめでたい気分は氷点下に冷めきった。
残像の中の笑顔がぼやけて、消えていく。
こんなにも簡単に命は無くなってしまう。そう考えると途端に怖くなった。
『ありがとう』
笑顔がぼやけて、消えていく。その夜はなぜか泣けて泣けて仕方がなかった。
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「死にたいとはおもわねーよ」
俺は、一層強く女生徒の肩を掴んだ。
「でもあんたには死んで欲しくない。頼む、こっちに戻ってきてくれ」
女生徒は俺を見て、景色を見てを繰り返すと、ハラハラするような頼りない手つきでフェンスを登ってフェンスの内側へ降り立った。
「死んで欲しくない、ってどういうこと?」
「そのまんまの意味だよ」
「もし私が死んだとしてもあなたの人生にはなにひとつ変わらないわ。それどころか私たちは今出会ったばかりなのよ。これから何かが変化する余地なんて無いのに、どうして死んで欲しくないなんて言うの」
「……嫌だからだよ」
「えっ?」
「……誰かが死ぬのは、嫌なんだよ」
記憶の中の笑顔がぼやけて、消えていく。俺は汚い床にへたりこみ、跳ね返ってくる青空の眩しさに目を細めていた。