ゆず図書館。*短編集*
4*はじまりの待ち合わせは、午後8時に。
 




ところ狭しとビルが立ち並ぶオフィス街。

その中に本社ビルがある生活用品メーカーで、私は販促の仕事をしている。

私が所属する販促課はリーダーと3つ上の先輩、そして私の3人で構成されており、私は現在、来春の新生活応援フェアの企画書を作成している真っ最中だ。

自分で希望した部署だけれどうまくいかないことも多く、今日も作成した企画書を突き返された。悔しくて仕方なくて、10分だけ、いつもの場所に逃げてきてしまった。

会社での私の逃げ場は非常階段だ。ここはビルの導線から離れた場所にあることもあり、社員はほとんど来ない。

いつものように座り込んでいると、横から窓が開く音がした。


「なんだ。またヘコんでるのか」


低音の声が耳の奥に響き、突っ伏していた顔を少し上げて横を見る。すると、端正な顔をした男性がクールな表情で私を見ていた。

直接確認したことはないけれど、たぶん彼は隣のビルに入っている弁護士事務所で働いている男性だ。ここから見えるブラインドの隙間から覗く部屋や彼のスーツ姿を見る限り、弁護士なのではないかと思う。

つい1週間前、うまくいかないことがあってこうやって落ち込んでいるときに話かけられ、話を聞いてもらった。名前も知らない人だし一度しか話したことはないけれど、私はなんとなく心を許してしまっていた。

今日ももしかしたら会えるかもしれないとほんの少しだけ期待していた姿に、私は答える。


「企画書を突き返されたんです。……悔しい」

「悔しい、か。いいことだな」

「どこがいいことなんですか。全然よくありません」

「悔しいって思うってことは、まだ前に進みたい気持ちがあるってことだろ。人間は悔しい思いをした分だけ、レベルアップできる生き物だ。悔しい思いをしたことのない人間はただ通りすぎていくだけで得るものは少ないけど、悔しい思いをして乗り越えていく人間は経験も感情もたくさんのものが手に入って厚みが増す。自然と人の心がわかる人間になる。そう思わないか?」


悔しい思いをしたことのなさそうな彼からこんな言葉が出てくるなんて、意外だった。私の予想が正しければ彼は弁護士だから、人の気持ちを理解するのが得意なのかもしれない。

とはいえ、落ち込んだ心は彼の言葉を素直に受け入れられない。


「……でも、なんでもうまくいく人は最初からいろんなものを持ってるし、そっちのほうがいいでしょ? こんなふうに愚痴を言って、人に迷惑をかけることもないし」


苦しい思いだってしなくて済むし、自分の思い通りのものを手に入れられる。


「たとえそうだとしても、中身がスカスカだったら意味がないだろ? 俺はいろんな感情を経験して成長した人間のほうが好きだし、前を向く意思のある愚痴を聞くのは嫌いじゃないよ。力になれるなら、なってやりたい」


彼の言葉は説得力がある。

こんなふうに話す彼はもしかしたらたくさんの感情を経験してきたのだろうか。なんでも器用にこなすタイプの人間だと思っていたけれど、それならこんな言葉は出てこないはずだ。

そう思えば彼のことが近く感じて、私は素直に言葉を受け取ろうと思った。


「……言葉の力、いただきました。成長できるように頑張ります。励ましのお言葉、ありがとうございます」

「頑張りすぎるなよ。ちゃんと聞いてなかったけど、企画の仕事をしてるんだよな?」

「まぁ、そんな感じです」

「じゃあ周りなんか気にせず、自分のやりたいようにやったらいいんじゃないか? その感じだと、今はできてないだろ」


……どうしてわかるの。


「失敗も周りの目も怖がらずに自分らしく作りたいものを作って、とことん揉まれていいものにしていけばいいんだよ。そうしていれば、誰よりもいいものが作れるようになる。まずは自分に負けないようにな」


まさに私が悩んでいた真髄の部分で、光が見えた気がした。今まで成功してきたものに寄せようとしてしまう自分がいて、自分らしく動くことができないでいたのだ。でも人と同じものを作ったって楽しくないし、人の心も掴めない。


「……そうします。負けません」

「うん。じゃあ、手、出して」

「え?」

「ほら、早く」


私を急かすように彼の手が小招く。

こうやって話すことができて近く感じるとは言っても、落下防止のために非常階段を取り囲むように設置されたフェンスのように、私と彼の間の壁は取り除けないと思っていた。
でも今までしなかっただけで、手を伸ばせば届くんだ。

そう気づいた私は左手でフェンスを掴み、右腕をフェンスの隙間から彼に向かって伸ばす。でも、隣のビルの壁まではまだ距離がある。

あれ……? 意外と遠い……?

そう思いながらも頑張って腕を伸ばしていると、彼の腕が隣のビルの一室の窓から伸びてきて「落とすなよ」と缶コーヒーを渡してくれた。

あ、届いた……。

受け取った缶コーヒーはまだあたたかくて、冷えた手も心もあたたまっていく気がした。自然と頬が緩んだ。


「ありがとうございます……」

「いいえ」


一瞬の沈黙が落ちる。

……どうしよう、彼はただ私の愚痴を聞いてくれているだけなのに、無性に彼のことを知りたくなった。


「あの」

「あのさ」


ふたり同時に口を開いた。

いつもの私だったらきっと相手に言葉を譲っていた。でも、今は早く聞きたくて私はその先へと向かう。


「名前、教えてもらえますか?」

「名前、教えてくれないか?」


それは彼も同じだったらしく、同じ疑問がビルの間に落ちた。お互いに驚いた後、ふっと笑い合う。


「今日の夜、予定はある?」

「あ、いえ……」

「じゃあ、飯でも行ってゆっくり話そうか。午後8時、下で待ち合わせよう」


どんな意図があるかなんてわからない。簡単に信じてもいい人なのかなんてわからない。

でも、私たちはここからはじまる予感がした。




*はじまりの待ち合わせは、午後8時に。*
 
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