体育館12:25~私のみる景色~

 濡れて重たくなったハンカチを握りしめ、トイレから出て教室へ向かう。


 一応ちょっと下を向いて、泣いたあとの顔を周りの人に見せないようにして歩く。


 泣き顔って、人に見せられるようなものじゃないもんね。


 うつむいて歩いていると、誰かとすれ違った。


 柑橘系の香りが鼻腔をかすめた。


 その瞬間、もう聞き慣れた甘く響く私の好きな声がした。


「……宮下さん」


 それを聞いて、自然と歩みが止まった。


 嘘、だよね?


 空耳、だよね?


 あんな顔で見てきた佐伯先輩が、私のことをそんな切なそうな声で呼ぶなんて。


 また、自分の都合のいい幻を聞いているのかな。


「無視しないで」


 ほら、また。


 鼓膜を揺らす、私の心をかき乱す、そんな声が聞こえる。


 もうわかってる。


 幻なんかじゃないって。


 低く甘い、空気を揺らす音も、爽やかな匂いも、全部佐伯先輩のものだってこと。

 
 頑張ると決意したばかりだけど、さすがにこんな顔を見せられるわけがないよ。


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