君のように
花火の前
 風に揺れる木の葉が擦れる音がする。ざぁざぁと耳障りなそれは、僕の落ち着かない心中を更に落ち着かなくさせる。握っていた手のひらの汗を、ズボンで拭う。
 僕たちが座るベンチは、長らく誰も座ったこともないのか、木の葉や砂で汚れていた。夏草が生い茂って見えなくなった道を抜けた先にあるこの丘には、もう長いこと人が来たこともないらしい。
 僕たちも、何年ぶりだろうか。
 すでに太陽はその姿を地平線に隠し、空は段々と紺色へと染まっていく。その空に雲はなく、星の光が暗闇に目が慣れていくにつれ見えてくるようになる。
 けれど、僕たちはその淡い自然の光を見に来たわけではなくて。
「……まだ始まらないね」
「そうだね」
 夏の夜空にはまだ花は咲かない。僕たちは手を繋いで、紺色に染まる空を眺めていた。指先を絡めて、微動だにせず。
「いつ始まるのかな」
「確か、七時からだっけ」
 時計を探そうとズボンのポケットに手を入れる。その手を、沙恵は無言で首を振ることで止めた。
「いいの?」
「いいよ」
 そう言ってまた沙恵は夜空に目を向ける。続いて、僕も。夜空に浮かぶ星々はその数を増し、暗闇に慣れた目にはたくさんの光が映る。
「……ここは、相変わらず誰も来ないね」
「……うん」
 そうしてまた、無言。夜空に大輪が咲くようになるまで続くのかもしれない。
 何を話せばいいのかわからなかった。もう付き合って三年にもなるのに。高校に入学してから、ずっと一緒にいるのに。それだけの長い時間を共にしてきたのに、僕は何も口にすることが出来ず、ただ黙って夜空を見上げる。
「いつ、出発するの」
「……明日。夜にはもう、日本にはいない」
「……そう」
 何か口にしようとしても、何も言葉が出なかった。そうしてる間に、沙恵が口を開く。
「孝助は、留学しないの?」
「僕は日本の方が性に合ってるから」
「……そう、だったね」
 静かだった。風の音もない。木の葉が擦れる音もない。僕の心臓の鼓動と、彼女の呼吸の音だけが耳に入る。手に握られた彼女の小さな手のぬくもりと柔らかな感触をより強く、顕著に感じて。
「ねぇ、孝助」
「……何?」
「この浴衣、どうかな」
 言われて、初めて僕は彼女の浴衣を目にしたように思える。淡い水色の布地に、色とりどりの花火が描かれている。美しく、落ち着いた色合いで、どこか彼女を思わせるような柄だった。
 ……嘘じゃない。この感想は、彼女の浴衣を見て懐いた感情は嘘じゃない。
「これ、私がデザインしたんだ」
「……そっか。道理で、沙恵らしいと思った」
 嘘じゃない。嘘ではないんだ。
「そう?」
 嘘じゃないはずなのに、どうして、自分でもわかるぐらい、薄っぺらな言葉に聞こえてしまうのだろう。
「うん。そう思う」
「……そっか」
 彼女は腕を上げ、袂を振る。ようやく浮かべた彼女の笑顔を見て、僕もようやく笑えた気がする。
「いつから作ってたの?」
「けっこう時間かかったんだよ。二ヶ月ぐらい根気良く進めてたんだ」
「へぇ……」
 もっと、気の利いた返事を言えないのか、僕は。
 彼女がどれだけ今日を楽しみにしていたのか、僕は知ってるだろうに。そして、どれだけ今日が来なければいいと思っていたのか。
 ……少なくとも僕は、今日なんて来なければいいと思っていた。
「孝助から見ても、良い出来だと思う?」
「誰から見ても、良い出来だと思うよ」
「でも、絵はずっと孝助の方がうまいじゃない」
「技量では、ね。センスは沙恵の方がずっと上だ」
「ふふ、そうかも」
「否定しない辺りが、沙恵らしいよ」
 自信家で、構図のことなら誰にも負けないぐらいの熱意を持っていた。
 構図の部分を、技量に変えれば、僕も同じようなものかもしれない。
「……ねぇ」
 彼女がベンチから立ち上がり、僕に振り返る。
「本当に、この浴衣、良いと思う?」
「だから、さっきから言ってるけど―――――」
「昔の、私と比べて」
 すぐに、答えることができなかった。
「……比べる必要なんて、ないだろ」
 言い淀んでしまった自分を、殴り飛ばしてやりたい。
「……そっか」
 そのせいで、彼女が浮かべた笑顔は消えてしまったのに。
 中学校の頃、開催された美術コンテストで金賞に輝いていた彼女の作品を思い出す。
 暖色を基盤とした、活き活きとした構成。今の落ち着いた色彩とは正反対の、凄惨に思えてしまうほどの希望に彩られた作品を。
 その隣に並べられた、同じく金賞を得た僕の作品なんて、場違いに思えるほどに鮮やかな作品を。
「……何が、変わっちゃったんだろうね。昔の私と、今の私」
「何も、変わってないよ」
「……嘘つき」
 そう彼女は呟いて、丘の先に歩を進める。転落防止の塀に手をつき、星々の輝きが増した夜空を見上げていた。
「……嘘じゃないよ」
 だから、何でそこで言い淀むんだ。
「ほんと、孝助って優しいよね。孝助のそういうとこ、私は大好きだよ」
 どうして、そんなことを、そんな今にも泣きそうな顔で言うんだよ。
「孝助は最近、絵を見せてくれないよね」
「……描いてないだけだよ」
「私に、嘘つかれるのが怖いだけでしょ?」
 言い淀むどころか、何も言えなかった。その言葉は、嘘をついた僕を糾弾してるようにも聞こえて。
 沈黙が続く。静寂は僕の言い訳を許さないように無音を貫き続けた。
「……私たち、満たされちゃったのかな。出会って、付き合うようになって」
 笑っている彼女の、確かに笑っているはずの彼女の表情に少なからず浮かぶ悲しみを見たくなくて、僕は下を向く。
「幸せになっちゃったから、もうそこから続かなくなったのかな」
 天才。それが、僕と彼女に向けられた賞賛だった。他の候補者との差を圧倒的なまでにつけての大勝。
 その道の上で、僕たちは出会った。出会い、惹かれあった。
 そうだ。惹かれないわけがないんだ。あれほどに輝かしい色彩に、見る人の意表を突くほどに精細に練られた構図で描かれた絵画に。そして、それを描ききる彼女自身に。
「絵への情熱を、なくしちゃったのかな……」
「……そうなのかも、しれない」
 他の芸術家がどうかは知らない。ただ、僕たちは希望を描き出すタイプの芸術家だった。
 届かないものを、本来なら描ききれないはずの何かを。磨きに磨いた技量と、卓越した構図を持って描き出す。
 絵の中になら形にすることが出来る、数々の希望を描き出す。その渇望は、満たされていては生まれないものだ。
 手の中にないからこそ、手を伸ばすように。
 手の中にないからこそ、手に入れようとする。
 その渇望こそが、僕たちの原動力だったのかもしれない。
 ……今の僕たちに、その渇望があるだろうか。
 恋に溺れ、愛に満たされた僕たちに。
「……ねぇ、孝助」
 丘の先で振り向いた彼女の背後の光景に、一筋の光が走り。

「別れよう?」

 夜空に、光が咲いた。
「別れて、元の私たちに戻ろう?」
 光が、沙恵を淡く照らしていた。
「私は……昔のあなたの絵を、見たいよ……」
 心臓に叩きつけられる爆音。その度に夜空に浮かぶ大輪。色鮮やかに、激しく、美しく、一瞬を象る光の芸術。
 その一幕を、元の僕たちならどうやって描くだろうか。
「……そうだね」
 元の、僕なんかの、清廉とした美しさを用いたものではない。僕の感性に憧れを抱く前の、彼女の精彩さを用いた感性で描いた絵を、僕は忘れられないから。
 あの時感じた感動を、素晴らしさを、愛おしさを、忘れることなんて出来ないから。
「……別れよう」
「……うん」
 美しいものを見たい。美しいものを描きたい。その渇望は、芸術家にとって何よりも大切で。なくしてはいけないもので。
 それをなくした僕たちは、芸術家を名乗れない。なら、芸術家でない僕たちはいったいなんだろう。生まれてからこれまで、絵を描くことで自分を表現してきた。絵を描くことで、自分の希望を表現出来ていた。
 そうやって輝いていた彼女の姿を、もう一度見たくて。
「別れ、よう……」
 もう一度、彼女が繰り返す。
 たとえ彼女に悲しみの涙を流そうとも、僕は彼女の輝きを見たくて。
 きっと、彼女も、そう思ってくれていると信じて。
「ああ、別れ、よう……っ」
 泣くなよって、言いたくなる。自分にも、彼女にも。
 僕たちはこれから、お互いの望みを叶えるのに。
 だったら、笑顔で別れるべきなのに。
 大輪は咲き続ける。暗い夜空を彩り続ける。一瞬の光を描き続ける。
 すぐに消えてしまうほどに儚くとも、確かに閃光のごとく光を放つ。
「ねぇ、最後に……」
 そう言って、彼女が近づいてくる。花火の光に照らされた彼女に、僕はゆっくり手を回し、抱き締めた。彼女は小柄で、僕の腕の中にすっぽり収まってしまう。
 この小さな体が、柔らかな指先が、綺麗な瞳が、豊かな感性が、あの見事な芸術を産み出していく。その行程に、僕という不純物を入れてはいけない。彼女が描き出す世界に、僕という要素は一つもなくたっていい。
 彼女の作品に、僕は心を奪われた。そして、彼女自身に、僕の全てを奪われた。たぶん彼女も、同じように僕の作品を貴い物だと思ってくれている。互いが互いを奪ったからこそ、生まれてしまった違和感。明確な差異。
 僕は彼女を目指し、彼女は僕を目指した。けれどその先に、僕たちが望むものはきっと、ない。
「遠くに行っても、もう届かなくなっても……大丈夫かな」
 無様にも泣きそうな声で、僕は彼女に問いかける。
「僕たちは、元通りになれるかな……」
 僕がいない場所で、また昔のような。明るく、見る人を全員笑顔にするような、温かい画風で。
 君らしい絵を、描いていけるだろうか。
「……うん、うんっ……!」
 僕の腕の中で、彼女が懸命に頷く。
「がんばる、がんばるから、孝助も、私が大好きな絵を、孝助の絵を、描いてね……?」
 彼女の言葉そのものが、僕の心を叩いているような気すらした。
「孝助の綺麗な絵が……澄んだ色合いで描いた、孝助らしい絵が、大好きだから……」
 僕たちは、互いが互いの画風に心を奪われて。それに近づこうとして、自分らしさなんてものをなくしてしまった。
 自分の絵のことなんて、本当はどうでもいい。けれど、僕たちはどうしても、どうしようもなく芸術家で、絵描きで。
 自分のせいでその素晴らしい絵が、大好きな作品が失われていくことが耐えられない。
 自分のせいで大好きな人が輝けなくなるのが、許せない。
「僕も、描くよ……描き続けるよ……君がいなくても、遠くに行っても、ずっと。描き続けるから……」
 言葉が滲む。溢れ出した涙で、嗚咽で。最後なのに、格好の悪い泣き顔を浮かべて。
「だから、だからっ……!」
 それでも、離れるために。僕たちが別れ、元の僕らに戻るために。
「さようなら……」
 どれだけ情けなくても。どれだけ無様でも。
「さよう、なら……!」
 最後の想いを、伝えきらないといけないんだ。
「……うんっ、さよ、なら……!」
 彼女の小さな手が。数々の名画を産み出していくであろう手が、僕の服を握り締める。強く、皺になるほど。柔らかな指先に力を込めて、必死に。
「さよならっ……!」
 彼女の、搾り出すような別れの言葉。
 そうして僕らは、抱き合い続けた。花火の爆音が鳴り響く間、ずっと。
 涙を流して、嗚咽を漏らして、泣き続ける僕らを気にも留めず、花火は夜空を彩り続けていた。


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