仄甘い感情
8
定時前…泣きながら社ビルに駆け込んできた弟妹に、絢女は原因もわからずに混乱するばかりだった――。
長谷部と別れた絢女が社長室に戻った矢先、内線が鳴った。
「はい。社長室、神崎です」
『受付の三村です。神崎さん、弟さんと妹さんがいらしてるんですが…』
電話の向こうで百合の泣き声が聞こえ、絢女は受話器を戻しもせずに社長室を飛び出した。
「長谷部です。どうかしましたか?」
長谷部が冷静に受話器を取り、何事か会話をすると元に戻す。
「何があった!?どこからだ!?」
「受付からです。下に弟さんたちがみえて…妹さんの泣く声が聞こえました」
尚嗣は絢女を追って、長谷部は尚嗣を追って社長室を飛び出した。
「ご、ごめんね…お姉ちゃんっ」
「いいの、一体どうしたの?」
「お家…追い出されちゃったんだ」
百合は泣きじゃくって絢女にしがみつき、啓太も目を真っ赤にしながら事を話していた。
尚嗣はそれを聞いて絢女に駆け寄る。
「啓太!百合!」
「尚嗣お兄ちゃんっ…ごめんなさい、僕…会社までっ」
「そんな事はいい。追い出されたってどう言う事だ?」
「ゎ、かんないんだ…何か、管理人さんと引っ越し屋さんが鍵開けて入ってきて…出てけって…これも、わかんなくて」
啓太は引っ越し業者の請求書を手にしていた。
「荷物全部…車に積まれて…お姉ちゃんに荷物の行き先訊かないと…っ、待ってる間もお金掛かるって…っ」
百合がまた声を上げて泣き出した。絢女は二人をしっかり引き寄せて抱き締める。
「大丈夫よ…私が行くから、ね?」
絢女の動揺は、尚嗣にも長谷部にも手に取るようにわかった。
「啓太…その紙、貸してみろ」
「はぃ」
「長谷部」
「畏まりました、社長」
受け取るとすぐに長谷部に手渡す。
「絢女、管理人に直談判だ。明確な理由がない限り、こんな事はあり得ない。啓太、百合…お前たちはここにいろ」
「啓太君、百合ちゃん?私が一緒にいますから、上に行きましょう」
尚嗣は啓太と百合に、長谷部は絢女の友達だからと話してやった。絢女が頷けば二人はやっと絢女から離れて、長谷部の側に歩き出す。
「頼むぞ、長谷部」
「はい、この件もすぐに調べます」
尚嗣は絢女の手を引いて地下駐車場へ向かい、迷わずランボルギーニ、ムルシエラゴに絢女を乗せた。
「で…ですから依頼がありまして…」
管理会社に押し掛けて、担当者に話を訊くと、何日か前からうるさいと近隣から苦情があったと言われた。
「特に一昨日は…その、ドンちゃん騒ぎのような声が…」
「一昨日は沖縄にいた。誰一人いない部屋で一体どうやって騒ぐんだ?」
「え!?」
担当者は尚嗣に怯えていたが、突きつけられたそれには更に動揺した。
「ここの責任者を呼べ。コイツを手渡せば社長ですら飛んでくるぞ」
名刺を投げ渡すと、担当者はサッと青ざめた。
「もういい…俺が電話する」
担当者が止めるのも聞かずに、尚嗣はどこかへ電話をし始めた。
「前島商事の前島です。お久しぶりですね、金井社長」
管理会社の事務所内は剣幕な尚嗣のお陰で、張り詰めた空気をしていたが、クレーマーだと思っていた尚嗣が前島商事の前島社長で、電話の相手が自社社長の金井だと知るや否や、誰もが驚きを隠せない。
「こんな事をされては信頼失墜ですね……いや、そう言う問題ではありませんよ。私相手だったから賠償?一般の顧客への対応もままならない、不正を許す企業は信頼に値しない。手を引かせてもらいます」
尚嗣は電話を切り、絢女の手を取る。
「こんなところは無意味だ、行くぞ」
車に乗り込んだ尚嗣はハンドルに突っ伏した。
「すまない、絢女」
「え?」
「…管理会社に金を掴ませてこんな事をしたのは…白沢工業の岩井常務の娘の仕業だ」
苦々しい口調の尚嗣に、絢女は沖縄に行く前日、尚嗣の部屋の前で出会した女性を思い出した。
「…クソっ……お前たちの大切な場所なのに…」
低く唸るように尚嗣が呟いた。
「…すまないっ」
絢女はぼんやりと尚嗣を見つめた。事が発覚してすぐにこうして動いてくれて、今は自分のせいだと悔いている。
確かにそこに至るまでの原因は、尚嗣の付き合いにあるかもしれない。だが尚嗣を責める気にはなれなかった。
「…尚嗣さん」
「っ!?」
「ありがとう…」
狭い車内で、絢女が尚嗣の右肩に凭れ掛かった。
「絢女…」
「…ごめんなさい」
「何でお前が謝る?原因は俺の…」
「私…尚嗣さんがよくわからなくて…誤解も、してて…」
「………」
「沖縄での事…啓太たちを邪険にされたと思ったの」
「っ、あれは……」
「長谷部さんからご夫妻の話を聞いて…尚嗣さんの話とかも……さっきもちゃんと啓太と百合の事まで考えてくれて…」
ゆっくり顔を上げると、絢女がふわりふわりと涙を零しているのが見えて、尚嗣はシャツの袖で押さえるようにそっと涙を拭ってやった。
「私…尚嗣さんがいなかったら…どうしていいかわからなかった」
「…絶対に、俺が何とかしてやる」
「…ん…尚嗣さんがいてくれて…私、すごく助けられてる」
「…俺、が…?」
「お父さんの事も仕事の事も…全部、尚嗣さんのおかげでよくなったし、啓太と百合も子供らしくなったし」
「…そうか」
「私…ちゃんと返せてるかな?尚嗣さんがしてくれた事の分だけでも…」
「見返りが欲しいわけじゃない…お前だから…そうしたいだけだ」
尚嗣が絢女を特別なのだと、遠回しにだが口にした。柔らかく頬を撫でる手に、自分の手を重ねる。
「…私じゃ…尚嗣さんに釣り合わないから…だから…」
「俺が欲しいのは釣り合いじゃない…お前の躯だけじゃない」
狭さを諸ともせずに引き寄せて、絢女を腕に閉じ込める。
沖縄で何度抱いても自分のモノになった気がしなかった。だから観光に行けないほど執拗に抱いたが、単なる堂々巡りでしかなかった。
どうしたら手に入るのか…糸口すら掴めずにいた。
「…お前が……」
欲しい、と…言えなかった。
長谷部と別れた絢女が社長室に戻った矢先、内線が鳴った。
「はい。社長室、神崎です」
『受付の三村です。神崎さん、弟さんと妹さんがいらしてるんですが…』
電話の向こうで百合の泣き声が聞こえ、絢女は受話器を戻しもせずに社長室を飛び出した。
「長谷部です。どうかしましたか?」
長谷部が冷静に受話器を取り、何事か会話をすると元に戻す。
「何があった!?どこからだ!?」
「受付からです。下に弟さんたちがみえて…妹さんの泣く声が聞こえました」
尚嗣は絢女を追って、長谷部は尚嗣を追って社長室を飛び出した。
「ご、ごめんね…お姉ちゃんっ」
「いいの、一体どうしたの?」
「お家…追い出されちゃったんだ」
百合は泣きじゃくって絢女にしがみつき、啓太も目を真っ赤にしながら事を話していた。
尚嗣はそれを聞いて絢女に駆け寄る。
「啓太!百合!」
「尚嗣お兄ちゃんっ…ごめんなさい、僕…会社までっ」
「そんな事はいい。追い出されたってどう言う事だ?」
「ゎ、かんないんだ…何か、管理人さんと引っ越し屋さんが鍵開けて入ってきて…出てけって…これも、わかんなくて」
啓太は引っ越し業者の請求書を手にしていた。
「荷物全部…車に積まれて…お姉ちゃんに荷物の行き先訊かないと…っ、待ってる間もお金掛かるって…っ」
百合がまた声を上げて泣き出した。絢女は二人をしっかり引き寄せて抱き締める。
「大丈夫よ…私が行くから、ね?」
絢女の動揺は、尚嗣にも長谷部にも手に取るようにわかった。
「啓太…その紙、貸してみろ」
「はぃ」
「長谷部」
「畏まりました、社長」
受け取るとすぐに長谷部に手渡す。
「絢女、管理人に直談判だ。明確な理由がない限り、こんな事はあり得ない。啓太、百合…お前たちはここにいろ」
「啓太君、百合ちゃん?私が一緒にいますから、上に行きましょう」
尚嗣は啓太と百合に、長谷部は絢女の友達だからと話してやった。絢女が頷けば二人はやっと絢女から離れて、長谷部の側に歩き出す。
「頼むぞ、長谷部」
「はい、この件もすぐに調べます」
尚嗣は絢女の手を引いて地下駐車場へ向かい、迷わずランボルギーニ、ムルシエラゴに絢女を乗せた。
「で…ですから依頼がありまして…」
管理会社に押し掛けて、担当者に話を訊くと、何日か前からうるさいと近隣から苦情があったと言われた。
「特に一昨日は…その、ドンちゃん騒ぎのような声が…」
「一昨日は沖縄にいた。誰一人いない部屋で一体どうやって騒ぐんだ?」
「え!?」
担当者は尚嗣に怯えていたが、突きつけられたそれには更に動揺した。
「ここの責任者を呼べ。コイツを手渡せば社長ですら飛んでくるぞ」
名刺を投げ渡すと、担当者はサッと青ざめた。
「もういい…俺が電話する」
担当者が止めるのも聞かずに、尚嗣はどこかへ電話をし始めた。
「前島商事の前島です。お久しぶりですね、金井社長」
管理会社の事務所内は剣幕な尚嗣のお陰で、張り詰めた空気をしていたが、クレーマーだと思っていた尚嗣が前島商事の前島社長で、電話の相手が自社社長の金井だと知るや否や、誰もが驚きを隠せない。
「こんな事をされては信頼失墜ですね……いや、そう言う問題ではありませんよ。私相手だったから賠償?一般の顧客への対応もままならない、不正を許す企業は信頼に値しない。手を引かせてもらいます」
尚嗣は電話を切り、絢女の手を取る。
「こんなところは無意味だ、行くぞ」
車に乗り込んだ尚嗣はハンドルに突っ伏した。
「すまない、絢女」
「え?」
「…管理会社に金を掴ませてこんな事をしたのは…白沢工業の岩井常務の娘の仕業だ」
苦々しい口調の尚嗣に、絢女は沖縄に行く前日、尚嗣の部屋の前で出会した女性を思い出した。
「…クソっ……お前たちの大切な場所なのに…」
低く唸るように尚嗣が呟いた。
「…すまないっ」
絢女はぼんやりと尚嗣を見つめた。事が発覚してすぐにこうして動いてくれて、今は自分のせいだと悔いている。
確かにそこに至るまでの原因は、尚嗣の付き合いにあるかもしれない。だが尚嗣を責める気にはなれなかった。
「…尚嗣さん」
「っ!?」
「ありがとう…」
狭い車内で、絢女が尚嗣の右肩に凭れ掛かった。
「絢女…」
「…ごめんなさい」
「何でお前が謝る?原因は俺の…」
「私…尚嗣さんがよくわからなくて…誤解も、してて…」
「………」
「沖縄での事…啓太たちを邪険にされたと思ったの」
「っ、あれは……」
「長谷部さんからご夫妻の話を聞いて…尚嗣さんの話とかも……さっきもちゃんと啓太と百合の事まで考えてくれて…」
ゆっくり顔を上げると、絢女がふわりふわりと涙を零しているのが見えて、尚嗣はシャツの袖で押さえるようにそっと涙を拭ってやった。
「私…尚嗣さんがいなかったら…どうしていいかわからなかった」
「…絶対に、俺が何とかしてやる」
「…ん…尚嗣さんがいてくれて…私、すごく助けられてる」
「…俺、が…?」
「お父さんの事も仕事の事も…全部、尚嗣さんのおかげでよくなったし、啓太と百合も子供らしくなったし」
「…そうか」
「私…ちゃんと返せてるかな?尚嗣さんがしてくれた事の分だけでも…」
「見返りが欲しいわけじゃない…お前だから…そうしたいだけだ」
尚嗣が絢女を特別なのだと、遠回しにだが口にした。柔らかく頬を撫でる手に、自分の手を重ねる。
「…私じゃ…尚嗣さんに釣り合わないから…だから…」
「俺が欲しいのは釣り合いじゃない…お前の躯だけじゃない」
狭さを諸ともせずに引き寄せて、絢女を腕に閉じ込める。
沖縄で何度抱いても自分のモノになった気がしなかった。だから観光に行けないほど執拗に抱いたが、単なる堂々巡りでしかなかった。
どうしたら手に入るのか…糸口すら掴めずにいた。
「…お前が……」
欲しい、と…言えなかった。