仄甘い感情
舌打ちしながら立ち上がった尚嗣は車のキーの束を手にしていた。
「…行くぞ」
「ぇ、あの…」
助けを求めるような視線を長谷部に向けた絢女の腕を取ると、構わずに歩き出す。
社長室から地下直結のエレベータに乗り込むと、地下駐車場に出た。
尚嗣が選んだのは深紅のランボルギーニ、ムルシエラゴ。
右側にある助手席のガルウィングを開けてやり、そこに乗るように促す。
「…ぅゎ…」
乗りにくい…などと思っていると、尚嗣は逆側から乗り込んだ。
狭い車内…手慣れた様子でエンジンを掛けると、爆音がシートからダイレクトに伝わってくる。
車で十数分…ブランドブティックが立ち並ぶ通りの、ある店の前で路肩に車を止める。
「俺が開けるまで待っていろ」
尚嗣が車を降りると、ブティックから店員が姿を現した。
キーを預けると、尚嗣は絢女を降ろしてやった。
「いらっしゃいませ、前島様」
「コイツにスーツ一式、いくつか見てやってくれ」
三人の女性スタッフに囲まれて、スーツやシャツにパンプスなど…あれこれと着せかえ人形のように押し付けられ、絢女は辟易していた。
「そっちのとそれ…後は淡いブルーの…そう、それだ」
試着する度に尚嗣の前に引き出され、十着程試した頃に尚嗣はあれこれと見立てて指示をする。
スーツを五着、シャツを五枚、ヒールが高めのパンプスを二足…尚嗣はカードで支払い、手ぶらで店を出た。
「あ、あの…手ぶら…」
「定時前には社に届く」
尚嗣がガルウィングを上げて、待っている。
助手席が車道側になる為に、エスコートも大変だ。
「早く乗れ」
「あ、すいません」
言われるがままに乗り込み、シートに収まる。反対側から乗り込むと、無言で車を走らせた。
「どちらへ行かれるんですか?」
社ビルの前を通り過ぎ、出てきた地下駐車場にも入らなかった。
「ランチだ」
「ラ、ンチ?」
「腹減ってるだろ」
「あ…はい」
尚嗣は無言で車を走らせる。
着いた先はイタリアンレストラン。
ランチは前菜、メイン、デザートと簡単なコースになったものだった。
尚嗣はペペロンチーノ、絢女はペンネアラビアータを注文した。
「…日曜までには簡単に荷物を用意しておけよ?少なくていい」
「啓太と百合には言ってありますけど…」
「何だ」
「…本当に…いいんですか?連れていって頂いちゃって…」
「…よくない事を言うと思うか?」
「社交辞令、的な?」
絢女が余りいい印象を持っていないせいか、どうも信用がないらしい。
「ならば来週の火曜を指定する必要も、荷物の心配をする必要もないだろうが」
「…夢見させてくれた感じ?」
「…お前は悉く俺を悪役に仕立て上げたいらしいな」
「そう言うわけじゃないですけど…心配で…」
「何の心配だ…」
「啓太と百合がお利口にしてられるかとか、後から何か請求されたりしないかとか…二人だけでちゃんと夜寝られるかとか…」
「…は?二人だけで、寝られるか…?」
尚嗣はきょとんとしながら絢女を凝視した。
「はい。あの子たち、寂しがりだから…」
く見えてきた話…尚嗣は片眉を器用に吊り上げる。
「…お前は俺に弟たちを預ける気か?」
「そう言う意味じゃないんですか?」
「お前は保護者として来るに決まっているだろう」
「でも…火曜日は平日だから…」
「社長が休みなのに秘書が二人も出勤する必要があるかっ。お前は俺に同行だ」
フン…と鼻で笑いながら尚嗣は食後のコーヒーを口にした。
「長谷部さんじゃないんですか?」
「アイツには知らせてないからな」
何故か自慢げな尚嗣だったが…。
「長谷部さん、知ってますよ?私、話しちゃいましたから」
「………」
「ダメ…でした?」
「…よくはないな」
「ごめんなさいι」
「仕方ない…俺も口止めをしなかったからなι」
「長谷部さんに知られると困るんですか?」
シチリアレモネードのストローを銜えながら、絢女が問う。
「禄な事がない…せっかくのオフがオフでなくなるからな」
これまでの有意義に計画してきた休暇の数々を思い起こしてみる。
「長谷部にバレたオフは大抵半分仕事にすり替えられてきた」
「さすが長谷部さん」
「感心するな…長谷部は鬼だ」
「社長はクビ切り魔ですし…怖いんですね、前島商事」
「妖怪扱いするなっ」
「自覚症状アリなんじゃありませんか」
「………」
この珍妙な掛け合いをやけに気に入っている尚嗣がいて、本人が誰より驚いていた。
「とにかく…お前も忘れず用意をしておけ」
「はぁ」
「気のない返事だな」
「あ~…何だか実感なくて。準社員だったのに、親会社の社長直々に契約書を持ち込まれて、社長秘書なんて」
「事実だろう?ありがたく思え」
「今は思ってます。父も快復の見込みがあるって言われましたし…社長のおかげです。ありがとうございます」
素直に告げられた言葉には尚嗣も、落ち着かなくさせられた。
「スーツの事とか、今のランチとか…クビ切り魔でもこう言うところがあるから、長谷部さんも社長に付いていけるんですね」
「だから…クビ切り魔って言うな」
じんとくる台詞のはずだが、【クビ切り魔】のフレーズで台無しだ。
絢女はふわりと笑っている。それだけで許してやるか、などとトチ狂った事を考えた自分に、些細な変化を感じながら、絢女がシチリアレモネードを飲むタイミングを見計らい、カップのコーヒーを飲み干した――。
「…行くぞ」
「ぇ、あの…」
助けを求めるような視線を長谷部に向けた絢女の腕を取ると、構わずに歩き出す。
社長室から地下直結のエレベータに乗り込むと、地下駐車場に出た。
尚嗣が選んだのは深紅のランボルギーニ、ムルシエラゴ。
右側にある助手席のガルウィングを開けてやり、そこに乗るように促す。
「…ぅゎ…」
乗りにくい…などと思っていると、尚嗣は逆側から乗り込んだ。
狭い車内…手慣れた様子でエンジンを掛けると、爆音がシートからダイレクトに伝わってくる。
車で十数分…ブランドブティックが立ち並ぶ通りの、ある店の前で路肩に車を止める。
「俺が開けるまで待っていろ」
尚嗣が車を降りると、ブティックから店員が姿を現した。
キーを預けると、尚嗣は絢女を降ろしてやった。
「いらっしゃいませ、前島様」
「コイツにスーツ一式、いくつか見てやってくれ」
三人の女性スタッフに囲まれて、スーツやシャツにパンプスなど…あれこれと着せかえ人形のように押し付けられ、絢女は辟易していた。
「そっちのとそれ…後は淡いブルーの…そう、それだ」
試着する度に尚嗣の前に引き出され、十着程試した頃に尚嗣はあれこれと見立てて指示をする。
スーツを五着、シャツを五枚、ヒールが高めのパンプスを二足…尚嗣はカードで支払い、手ぶらで店を出た。
「あ、あの…手ぶら…」
「定時前には社に届く」
尚嗣がガルウィングを上げて、待っている。
助手席が車道側になる為に、エスコートも大変だ。
「早く乗れ」
「あ、すいません」
言われるがままに乗り込み、シートに収まる。反対側から乗り込むと、無言で車を走らせた。
「どちらへ行かれるんですか?」
社ビルの前を通り過ぎ、出てきた地下駐車場にも入らなかった。
「ランチだ」
「ラ、ンチ?」
「腹減ってるだろ」
「あ…はい」
尚嗣は無言で車を走らせる。
着いた先はイタリアンレストラン。
ランチは前菜、メイン、デザートと簡単なコースになったものだった。
尚嗣はペペロンチーノ、絢女はペンネアラビアータを注文した。
「…日曜までには簡単に荷物を用意しておけよ?少なくていい」
「啓太と百合には言ってありますけど…」
「何だ」
「…本当に…いいんですか?連れていって頂いちゃって…」
「…よくない事を言うと思うか?」
「社交辞令、的な?」
絢女が余りいい印象を持っていないせいか、どうも信用がないらしい。
「ならば来週の火曜を指定する必要も、荷物の心配をする必要もないだろうが」
「…夢見させてくれた感じ?」
「…お前は悉く俺を悪役に仕立て上げたいらしいな」
「そう言うわけじゃないですけど…心配で…」
「何の心配だ…」
「啓太と百合がお利口にしてられるかとか、後から何か請求されたりしないかとか…二人だけでちゃんと夜寝られるかとか…」
「…は?二人だけで、寝られるか…?」
尚嗣はきょとんとしながら絢女を凝視した。
「はい。あの子たち、寂しがりだから…」
く見えてきた話…尚嗣は片眉を器用に吊り上げる。
「…お前は俺に弟たちを預ける気か?」
「そう言う意味じゃないんですか?」
「お前は保護者として来るに決まっているだろう」
「でも…火曜日は平日だから…」
「社長が休みなのに秘書が二人も出勤する必要があるかっ。お前は俺に同行だ」
フン…と鼻で笑いながら尚嗣は食後のコーヒーを口にした。
「長谷部さんじゃないんですか?」
「アイツには知らせてないからな」
何故か自慢げな尚嗣だったが…。
「長谷部さん、知ってますよ?私、話しちゃいましたから」
「………」
「ダメ…でした?」
「…よくはないな」
「ごめんなさいι」
「仕方ない…俺も口止めをしなかったからなι」
「長谷部さんに知られると困るんですか?」
シチリアレモネードのストローを銜えながら、絢女が問う。
「禄な事がない…せっかくのオフがオフでなくなるからな」
これまでの有意義に計画してきた休暇の数々を思い起こしてみる。
「長谷部にバレたオフは大抵半分仕事にすり替えられてきた」
「さすが長谷部さん」
「感心するな…長谷部は鬼だ」
「社長はクビ切り魔ですし…怖いんですね、前島商事」
「妖怪扱いするなっ」
「自覚症状アリなんじゃありませんか」
「………」
この珍妙な掛け合いをやけに気に入っている尚嗣がいて、本人が誰より驚いていた。
「とにかく…お前も忘れず用意をしておけ」
「はぁ」
「気のない返事だな」
「あ~…何だか実感なくて。準社員だったのに、親会社の社長直々に契約書を持ち込まれて、社長秘書なんて」
「事実だろう?ありがたく思え」
「今は思ってます。父も快復の見込みがあるって言われましたし…社長のおかげです。ありがとうございます」
素直に告げられた言葉には尚嗣も、落ち着かなくさせられた。
「スーツの事とか、今のランチとか…クビ切り魔でもこう言うところがあるから、長谷部さんも社長に付いていけるんですね」
「だから…クビ切り魔って言うな」
じんとくる台詞のはずだが、【クビ切り魔】のフレーズで台無しだ。
絢女はふわりと笑っている。それだけで許してやるか、などとトチ狂った事を考えた自分に、些細な変化を感じながら、絢女がシチリアレモネードを飲むタイミングを見計らい、カップのコーヒーを飲み干した――。