仄甘い感情
5
翌日の尚嗣は長谷部が気味悪いと言う程に機嫌がよかった――。


日曜の夜、帰りの車中で尚嗣は思わずの自分の行動に驚きながら赤面していた。
抱き締めたりキスしたりが初めてなわけでも、慣れていないわけでもない。なのに絢女には気恥ずかしさが先に立つ。
ほんの数秒の事なのに、腕や胸元には絢女の移り香を感じる。
抱き締めてキスするだけでこんなに高揚した覚えはない。義務的に交わしてきたそれが、尚嗣を暖かい気分にさせる。
自宅に着いて、風呂に入ろうと思い立った時、脱ぐのが惜しいなどと考えた自分に苦笑いしてしまった程だ。
また明日、抱き締めればいい…そう思い直してバスルームに向かい、ふわふわした気分で就寝した。




そして翌朝も、同様にそれは継続していた。

「やけに機嫌がいいようですね」
「そうか?」
「明日からは沖縄でバカンスだからですか?」
「それもあるな」

長谷部は何となくその上機嫌の元を理解していた。

尚嗣の一挙一動に絢女が妙に挙動不審に見えるからだ。絢女をよく知らない人間なら気付きはしないだろうが、職業病か長谷部にははっきりと違いを察する事が出来た。

「神崎さんと…進展ありましたか?」
「っ!?」

今度は尚嗣がそれに反応した。手にしていた書類をグシャリとやって、慌てて皺を延ばしている。

「わかりやすい人だ」
「っ…うるさい…」
「最短記録じゃありませんか」
「…何がだ」
「お付き合いに至るまでの期間です」
「…別にそう言う事じゃない」
「は…?付き合い始めたのでは?」
「違う」
「じゃあ一体何があったんですか?まさかいい年した男が手を繋ぎましたとか言いませんよね?」
「……キス、しただけだ…悪いかっ」

ぷいとそっぽを向く尚嗣に長谷部は必死に笑いを堪える。

「あの尚嗣が…キスだけで上機嫌…」
「黙ってろっ」

ついに赤面した尚嗣に、長谷部は肩を揺らしながら、まだ堪えている。

「長谷部っ」

「誰だって笑いますよ。三十越えた経験豊富な尚嗣みたいな男が、キスで上機嫌なんて」
「………」
「どうせ唇に触れるだけで精一杯だったんでしょう?」
「っ…」
「うちの社長はこんなに純情でしたか」
「長谷部っ」

揶揄って楽しんでいるとしか思えない長谷部の態度だが、尚嗣も冷静に受け流すだけの余裕がない。
当の絢女は長谷部から遣いを頼まれて、人事課へ出ていていなかった。

「…本気、ですか?」

長谷部がふと口調を変えた。先程までの揶揄うようなものではない。

「…わからん」
「神崎さんは秘書としてかなり素質のある人ですからね…遊びなら優秀な癒し系秘書を一人、失うと思って下さいよ?」
「………」
「まぁ生真面目な神崎さんの事ですから、痴情のもつれで仕事を放り出すとは思えませんし、執拗く言い寄る事もあり得ないでしょうがね」
「…やけに詳しいな」
「嫉妬、ですか?」
「長谷部っ」
「僕も秘書歴は長いですからね…人間観察は職業病です」

長谷部は微笑ましい気分になりながら続ける。

「それに僕よりも過ごす時間の長い尚嗣の方が、神崎さんの事はよく知ってるでしょう?」
「………」
「明日からの三日間でもっと知り合えるといいですね」
「っ、黙……」
「只今戻りまし……?」

社長室に戻った絢女はドアを開けて目にした光景に足を止めた。
赤面した尚嗣と肩を揺らして笑う長谷部。どちらも絢女にすればあり得ない様だ。

「社長…熱でもあるんですか?」
「ないっ」
「気にしないで下さい、神崎さん。社長は案外照れ屋なんですよ」
「長ぁ谷部ぇ!」
「………」
「神崎さん、カフェインを与えてやって下さい。大人しくなりますから」
「与えるとか言うな!俺は動物じゃないっ」

二人を後目に絢女は社長室に備え付けの給湯スペースに向かった。普段より少し甘めにコーヒーを作り、尚嗣が気に入ったラッテのカスタードケーキ(個包装入、今回はパーティーパックの9個入を特売で購入)のアレンジを添えた。

「ラズベリーがなかったのでブルーベリーにしました」

尚嗣と長谷部にトレイを出し、尚嗣には愛煙銘柄の赤マルも添える。絢女は勤務で尚嗣に付いて回る時のバッグには、赤マルとジッポをいつも入れている。
取引先に向かう際にも小型のステンレスボトルにコーヒーを入れて持ち歩く。
気に入らないコーヒーでも口を付けないわけにはいかないので、取引先を出た後の車内で口直しに飲む為だ。
入社から一週間…すでに絢女は一人で尚嗣に付ける程で、長谷部を楽させている。
念の為に絢女はボイスレコーダーを購入していて、一人で付いた際にはそれを使う。長谷部にはそれを聞いてもらう事もあるのだ。

「やはり神崎さんは秘書向きですね。まだ一週間なのに、ここまで気遣いが出来るんですから」
「教えて下さる長谷部さんがすごい人だからですよ。私なんて、もういっぱいいっぱいですから」
「神崎さんを引き抜いて正解でしたね、社長?」
「…俺の目を疑ってるのか?」

「いいえ、信用してますよ」
「白々しい…」

コーヒーを飲みながらケーキを口にする尚嗣は、穏やかに見えて長谷部はやはり微笑ましい気分になる。差し出されていた赤マルは尚嗣が開封する手間を省かれていて、尚嗣はスムーズに一本を銜えた。
絢女は人事課からの帰りに預かった郵便物を開封して、内容を確認しながら仕訳している。

「……、…」

聞こえるか聞こえないかの小さな声…絢女が仕訳の手を止めて指先を見た。だがすぐにまた仕訳を始める。

「指、切ったのか?」

尚嗣が立ち上がって絢女の手首を掴む。

「大丈夫です」

事もなげに言った絢女から離れ、尚嗣が普段は絶対に開けないキャビネットを開けた。

「貼っておけ」
「ぁ…ありがとうございます」

差し出されたのはバンドエイドだ。
そんなやりとりに長谷部は少々驚きつつも、穏やかにそれを見守った。


何の問題もなく一日の業務を終えると、尚嗣は絢女を待った。

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