上司のヒミツと私のウソ
 それに、どうして私が矢神の機嫌を伺う必要があるのだろう。逆ならまだしも。


 連休の間、私は食欲をなくすほど悩んだのに、彼は平気だったのだろうか。

 今だって、電話の向こうの矢神はなにもなかったかのように平然と振る舞っていて、私だけが神経過敏になっているような気がする。


「西森?」

 矢神の声は、驚くほどやさしく、真剣な響きを伴っていた。


 そんな声で名前を呼ばないでほしい。

 今すぐ会いたくなってしまう。


 私が踏みこもうとしている場所は、未知の領域だ。

 不安定で見通しがきかず、ひとつ間違えば大けがをする。

 今までの私はその危険を恐れて、一度も足を踏み入れたことがなかった。


「私……」


 覚悟はできているはずだったけれど、踏み出す足が動かなかった。つぎの言葉が出てこない。ためらっていると、矢神が手を差し伸べた。


「明日、もどったら」


 一言ずつ、確かめるように言葉を繋ぐ。

 彼もまた、踏みこむことに迷いを感じているのかもしれない。
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