上司のヒミツと私のウソ
「あんたって本当に冷たい子ね。最後の日くらい一緒に食事をしようってお父さんがいうから、わざわざ電話したのに」

 母のこれ見よがしな溜息が聞こえる。

「もういいわ。仕事中に邪魔して悪かったわね」

 電話は唐突に切れた。


 私は携帯電話を握ったまま猛烈に腹を立てていた。

 なんて勝手ないいぐさだろう。

 いまさら、あの店で家族三人が揃って一緒に食事だなんて、呆れてものもいえない。

 子供のころ、私がそれをいちばん望んでいたときには、二人して背を向けて目もくれなかったくせに。

 最後だろうとなんだろうと、私は絶対にあの店に足を踏み入れるつもりはなかった。


 執務室にもどると、すっかり帰り支度をした安田が私を見て立ち上がるところだった。

「用事があるから先に帰るわ」

 安田がにこにこしながらいい、矢神のデスクにちらりと視線を走らせた。


「帰ってきたわよ」


 すぐに反応して、私は矢神のデスクを見た。

 脱ぎ捨てたグレーのジャケットが、デスクの上に無造作に置いてある。
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