上司のヒミツと私のウソ
「じゃあね」

 安田がひらひらと手を振って、小走りに横断歩道を渡った。待ってという暇もなかった。

 暗い通りの向こうに安田の姿が遠ざかるのを見ていると、矢神が私の隣に並んだ。


「俺はこのまま帰るけど、どうする?」

 矢神の低い声が、シトラスの匂いをまとって夜の暗闇に響く。

「うちに来る?」


 私が答えに迷って黙ったまま動かないでいると、矢神は私を置いて先に歩き出した。私は迷っている自分を置き去りにして、矢神の背中を追いかける。


「行く」


 矢神の隣にひっつくように並ぶと、手と手が触れ合った。離れようとした瞬間に矢神が私の手を握る。温かくて大きな手は、私をつかんで離さない。


 矢神は戸惑う私を見下ろして満足そうに笑い、手を握ったまま夜の道を歩き出した。

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