とけていく…
「いらっしゃい」

 カウンターでは、マスターが変わらない優しい笑顔を浮かべ彼の来店を歓迎していた。

「こんにちは」

 涼は、ピアノの前に直行した。そしてデニムパンツの前ポケットに手を突っ込み、このピアノのキーを取り出すと、穴に差し込んだ。ガチャリと重い錠の開く音がした。鍵盤の蓋をそっと開くと、彼はその黄ばんだ鍵盤にそっと指を添えた。

 静かに流れ出すメロディは、今までになく切なくて、激しくて、寂しいものだった。

 ここにいる誰もが、繊細に奏でられる旋律に耳を傾けていた。夏のある午後、それは彼の決意でもあった。

 弾き終わり、またもとあった様に全て戻すと、涼は、手にしていたピアノのキーをマスターの前に差し出し、黙ってカウンターの上に置いた。

「…お返しします。もう、必要ないので」

「そっか。残念だな」

 寂しそうに笑いながら、マスターはそのキーを手に取り、引き出しにしまった。

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