とけていく…
 いつの間にか、誰もが黙って彼のピアノの旋律に耳を傾けていた。そのリズムは、体を踊らせたくなるようなジャズだ。ひょっとしたら、キケロの真似事に過ぎないのかも知れない。今は、それでもいい。いつか、きっと…

 彼の人生にスパイスを効かせてくれたキケロの曲を、涼は力いっぱい演奏した。誰もが聞いたことのある旋律が、新しいタッチで回る。そう、誰もが知っている、『キラキラ星』だ。

 彼は、ちゃんと分かっていた。もっともっと勉強しなければ、キケロには届かないことくらい。それでも、旅立ってしまった父に、成長している自分を証明するために捧げなければならなかった。留学よりももっとやらなければならないことがあるはずだ。

 人を心から愛すること。愛する人を守ること。そして、心が豊かになった時に、最高の音楽を奏でること…

 孤独な心のままではもう生きては行けない。彼には、人の優しさが必要だった。



 最後の音を弾いた時、涼は倒れ込みそうになった。会場は静まり返っている。

(…終わった)

 彼がそう思った瞬間だった。一斉に拍手が舞い起こったのだ。

 春に、同じような光景を眼にした。強い風とともに一斉に舞い上がった桜の花びらのトンネルの中で、ひとりの少女に出会った。その情景と重なったような気がしたのだ。その時と同じくらいの衝撃だった。

 彼のためだけに起こった盛大な拍手と、スタンディングオーベーション。その波に吸い込まれるかのようだった。溶けてなくなってもいいくらい、こんな名誉なことはない。

 とても楽しい六分間だった。

< 195 / 213 >

この作品をシェア

pagetop