【完】「逢ひみての」
2
饗庭センセは、半月にいっぺんやってくる。
「テレビや取材や言うから、身だしなみ整えなしゃーない」
ああいうのはいちいち細かいし、めんどくさいのや…と饗庭センセはときに笑いながらぼやいたりする。
もはやボヤキ芸である。
「そんなん断ってもうたらえぇんちゃいますの?」
麻里菜が返すと、
「せやかて嫁おるし、稼がなあかんし、まぁ人生は妥協が半分やから、こら諦めやな」
「じゃ、あとの半分は?」
「あとの半分か…まぁわがままやろな」
「わがまま?」
「せや、わがままや。えぇモンはえぇ、アカンもんはアカンばっかりやとただのわがままやから、どっかで折り合いつけなあかん」
みんなそうしながら生きて飯食うたりしてるもんや、とまるで饗庭センセは禅の坊主めいたことを言うのである。
「面白いセンセですね」
麻里菜は吹き出した。
「おもろい…んかなあ?」
その割にはこないだテレビ局のディレクターにはしょーもないって言われたけどなぁ、と饗庭センセは言った。
「私は面白いセンセやって思いますよ」
「おぉきに」
麻里菜はこの仕事が初めて楽しいと感じた。
夜。
閉店のあと、店を片付けてから麻里菜は一人で練習をしていた。
(早く一人前にならなきゃ)
スイスにいるダニエルや、指名してくれる饗庭センセのためにも、である。
練習を終え、蛸薬師高倉にある美容院を出て、錦小路の市場を抜けると錦天神の近くで、変わった光景を見つけた。
ビニール傘をキャンバスに、絵を描いている若者があるのである。
虹と青空の絵であった。
(世の中には不思議な人がいるなぁ)
麻里菜は横目に見て新京極通を下がり、河原町四条の阪急線に乗ると、四条大宮で嵐山線に乗り継いで、山ノ内の外国語大学の裏手にあるアパートへと帰る。
が。
この日は運が悪かった。
しつこいナンパに絡まれたのである。
無視して河原町四条の駅に入ると、まだついてくる。
麻里菜は駅の事務所に駆け込むと、ひとまず駅員に保護してもらった。
いなくなったのを見計らって事務所を出る。
まだいた。
腕を掴まれた。
その時。
急にナンパの男が手を離した。
倒れたのである。
見ると、さっき錦天神で傘に絵を書いていた若者が、不機嫌そうに立っている。
駅員が駆けつけた。
「今日はこいつも運が悪いな」
虫の居所が悪いのや、というと倒した男の腹を蹴り上げた。
「仕留めときましたから、あとは頼みます」
駅員に後事を託すと、四条通に出てタクシーに麻里菜を押し込んだ。
「彼女の家まで」
そういうと若者は、駅へと再び消えていった。
日が、過ぎた。
いつものように麻里菜にシャンプーを饗庭センセがしてもらっていると、袖をまくった麻里菜の腕にアザがあるのを、饗庭センセは見逃さなかった。
「腕…どないしたんや」
「あっ…これは」
麻里菜は観念したかのように、こないだの河原町四条で起きたナンパ事件の顛末を話した。
すると。
「ビニール傘に虹の絵、か…」
もしかしたらあいつかも知らんな、と饗庭センセは言った。
「あいつ?」
「芸大の頃にいたんや、傘をキャンバスに卒業製作をやったのが」
確か瀬戸口ってやつやなかったかなぁ…と饗庭センセは言う。
「瀬戸口…さん?」
「まぁ少し話したことがあるぐらいで、大して仲がえぇってほどでもなかったんやが、変わったやつがおるっちゅうて、ゼミとか噂にはなっとった」
今度まぁ確かめたる、という頃には、麻里菜はドライヤーの準備に取り掛かっていた。
何日かして…。
再び饗庭センセがやって来た。
この日は仲睦まじく手を繋いでパートナーらしき人を連れている。
「うちの嫁や」
「いつもうちの饗庭がお世話になってます」
パートナーは、饗庭エマといった。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
麻里菜は深々とお辞儀をした。
(綺麗な奥さんやな)
内心、麻里菜は世の中には美女は存在する…とのちに感じたらしい。
が。
エマが話の主役ではない。
いつものようにシャンプーを饗庭センセは頼み、エマもついでに髪を麻里菜に洗ってもらった。
「な? 彼女のシャンプー、仕事が丁寧やろ?」
饗庭センセはエマに聞こえるように、店じゅうに響くような声で言った。
実は。
──シャンプーが遅い。
と麻里菜は時々、叱られることがあった。
それを。
饗庭センセは知っていたのである。
「世の中なんでもかんでも、早けりゃえぇっちゅうもんやない。セックスと仕事は変に早く済ますと相手に不満が溜まるのや」
きちんと丁寧に仕事をするのが一番や、と饗庭センセはいう。
あけすけな例えに麻里菜は開いた口が塞がらなかったが、当の饗庭センセは気にもしない。
「早いと気持ちがこもっとらんみたいで、やってもらっても気色悪い」
エマによるととにかく饗庭センセはズケズケとものを言ってしまう性分で、テレビ局で生放送の本番中にスタッフが気に入らないと帰ってしまったり、相手が誰であろうと嫌なものは嫌だ…とハッキリと口に出してしまう。
「まぁ、そういう大きな子供みたいなところが、翔くんの強みなんだけどね」
エマは麻里菜に明るく語って聞かせた。
「あ、…せや」
例の傘の件やっぱり瀬戸口らしいで、と饗庭センセは言ってから、
「あいつ少し気難しいから、おれが何とかしたる」
何かあったら連絡しいや、と饗庭センセは名刺を麻里菜に渡した。
裏には饗庭センセの自宅のアドレスらしき直筆がある。
会計を済ますと饗庭センセの夫妻は店を出た。
それから。
シャンプーが遅い…とは麻里菜はなぜか、叱られなくなった。
「テレビや取材や言うから、身だしなみ整えなしゃーない」
ああいうのはいちいち細かいし、めんどくさいのや…と饗庭センセはときに笑いながらぼやいたりする。
もはやボヤキ芸である。
「そんなん断ってもうたらえぇんちゃいますの?」
麻里菜が返すと、
「せやかて嫁おるし、稼がなあかんし、まぁ人生は妥協が半分やから、こら諦めやな」
「じゃ、あとの半分は?」
「あとの半分か…まぁわがままやろな」
「わがまま?」
「せや、わがままや。えぇモンはえぇ、アカンもんはアカンばっかりやとただのわがままやから、どっかで折り合いつけなあかん」
みんなそうしながら生きて飯食うたりしてるもんや、とまるで饗庭センセは禅の坊主めいたことを言うのである。
「面白いセンセですね」
麻里菜は吹き出した。
「おもろい…んかなあ?」
その割にはこないだテレビ局のディレクターにはしょーもないって言われたけどなぁ、と饗庭センセは言った。
「私は面白いセンセやって思いますよ」
「おぉきに」
麻里菜はこの仕事が初めて楽しいと感じた。
夜。
閉店のあと、店を片付けてから麻里菜は一人で練習をしていた。
(早く一人前にならなきゃ)
スイスにいるダニエルや、指名してくれる饗庭センセのためにも、である。
練習を終え、蛸薬師高倉にある美容院を出て、錦小路の市場を抜けると錦天神の近くで、変わった光景を見つけた。
ビニール傘をキャンバスに、絵を描いている若者があるのである。
虹と青空の絵であった。
(世の中には不思議な人がいるなぁ)
麻里菜は横目に見て新京極通を下がり、河原町四条の阪急線に乗ると、四条大宮で嵐山線に乗り継いで、山ノ内の外国語大学の裏手にあるアパートへと帰る。
が。
この日は運が悪かった。
しつこいナンパに絡まれたのである。
無視して河原町四条の駅に入ると、まだついてくる。
麻里菜は駅の事務所に駆け込むと、ひとまず駅員に保護してもらった。
いなくなったのを見計らって事務所を出る。
まだいた。
腕を掴まれた。
その時。
急にナンパの男が手を離した。
倒れたのである。
見ると、さっき錦天神で傘に絵を書いていた若者が、不機嫌そうに立っている。
駅員が駆けつけた。
「今日はこいつも運が悪いな」
虫の居所が悪いのや、というと倒した男の腹を蹴り上げた。
「仕留めときましたから、あとは頼みます」
駅員に後事を託すと、四条通に出てタクシーに麻里菜を押し込んだ。
「彼女の家まで」
そういうと若者は、駅へと再び消えていった。
日が、過ぎた。
いつものように麻里菜にシャンプーを饗庭センセがしてもらっていると、袖をまくった麻里菜の腕にアザがあるのを、饗庭センセは見逃さなかった。
「腕…どないしたんや」
「あっ…これは」
麻里菜は観念したかのように、こないだの河原町四条で起きたナンパ事件の顛末を話した。
すると。
「ビニール傘に虹の絵、か…」
もしかしたらあいつかも知らんな、と饗庭センセは言った。
「あいつ?」
「芸大の頃にいたんや、傘をキャンバスに卒業製作をやったのが」
確か瀬戸口ってやつやなかったかなぁ…と饗庭センセは言う。
「瀬戸口…さん?」
「まぁ少し話したことがあるぐらいで、大して仲がえぇってほどでもなかったんやが、変わったやつがおるっちゅうて、ゼミとか噂にはなっとった」
今度まぁ確かめたる、という頃には、麻里菜はドライヤーの準備に取り掛かっていた。
何日かして…。
再び饗庭センセがやって来た。
この日は仲睦まじく手を繋いでパートナーらしき人を連れている。
「うちの嫁や」
「いつもうちの饗庭がお世話になってます」
パートナーは、饗庭エマといった。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
麻里菜は深々とお辞儀をした。
(綺麗な奥さんやな)
内心、麻里菜は世の中には美女は存在する…とのちに感じたらしい。
が。
エマが話の主役ではない。
いつものようにシャンプーを饗庭センセは頼み、エマもついでに髪を麻里菜に洗ってもらった。
「な? 彼女のシャンプー、仕事が丁寧やろ?」
饗庭センセはエマに聞こえるように、店じゅうに響くような声で言った。
実は。
──シャンプーが遅い。
と麻里菜は時々、叱られることがあった。
それを。
饗庭センセは知っていたのである。
「世の中なんでもかんでも、早けりゃえぇっちゅうもんやない。セックスと仕事は変に早く済ますと相手に不満が溜まるのや」
きちんと丁寧に仕事をするのが一番や、と饗庭センセはいう。
あけすけな例えに麻里菜は開いた口が塞がらなかったが、当の饗庭センセは気にもしない。
「早いと気持ちがこもっとらんみたいで、やってもらっても気色悪い」
エマによるととにかく饗庭センセはズケズケとものを言ってしまう性分で、テレビ局で生放送の本番中にスタッフが気に入らないと帰ってしまったり、相手が誰であろうと嫌なものは嫌だ…とハッキリと口に出してしまう。
「まぁ、そういう大きな子供みたいなところが、翔くんの強みなんだけどね」
エマは麻里菜に明るく語って聞かせた。
「あ、…せや」
例の傘の件やっぱり瀬戸口らしいで、と饗庭センセは言ってから、
「あいつ少し気難しいから、おれが何とかしたる」
何かあったら連絡しいや、と饗庭センセは名刺を麻里菜に渡した。
裏には饗庭センセの自宅のアドレスらしき直筆がある。
会計を済ますと饗庭センセの夫妻は店を出た。
それから。
シャンプーが遅い…とは麻里菜はなぜか、叱られなくなった。