【完】「逢ひみての」
4
すっかり肌寒くなった。
錦市場の総菜屋の店先で関東煮(かんとだき。おでんのこと)が並び始めた頃、麻里菜はパスポートの手続きで書類を取るために、奈良へ帰ったことがあった。
実家は郡山にある。
近鉄線で西大寺まで出て、橿原線に乗り継ぐと尼ヶ辻を過ぎてすぐに宅地の合間から、見慣れた古墳や、唐招提寺の伽藍の森が見えてくる。
西ノ京の薬師寺の塔を後ろへ飛ばし、車窓は九条の平野を走って、細長い池を右手に、郡山のプラットホームへと電車は滑り込む。
雨の上がった郡山の町は、変な飾り立てもない静かな町である。
麻里菜は歩いて、市役所を目指した。
いっぽう。
照はというと、上御霊前大宮の、通称をトキワ長屋と呼ばれたアトリエ村で絵筆が進まず、頭を抱え込んでいた。
麻里菜の面影がちらつくのである。
(なんで出てくる…!)
恐らく彼氏がいるのは、照でなくても勘がよければ察せられる。
だが。
こういった場合の対処など、照には分からない。
寝転がった。
視線の先には郷里の宇和島から携えてきた、母校のサッカーのユニホームがある。
目を閉じた。
しばらく瞑想していたが、
「…そうだ」
跳ね起きると照は、なぜか旅支度を始めた。
その頃。
麻里菜は無事にパスポートのための書類が取れ、少し時間があったので久しぶりに城跡まで歩いた。
踏切を越え三ノ丸の緑地を抜けると、鷺池の向こうに石垣が見えてくる。
ついでながら郡山の城跡は吉野山や東大寺に比べると奈良では隠れた桜の穴場で、観光客よりも地元の住民がよく行く。
麻里菜も幼稚園の時分、親に連れられ、花見をしたことがある。
下見板の張られた二層の隅櫓と古色蒼然とした桝形門は、麻里菜が子供の頃に見たそのままである。
一段高い石垣の上には神社があって、境内の樹々の繁りが開けた場所からは、はるかに若草山と春日大社の森をバックに、大仏殿の大屋根が見えた。
「…なんか、帰りたないなぁ」
麻里菜はこのまま京都へ戻るのが、億劫だと少し思ったらしい。
さて。
照は新幹線の中にあった。
手にはどういうことか広島行きの切符がある。
というのも。
宇和島は遠い町である。
京都からだとまず新幹線で広島へ行き、市電と船で宇品から松山へ渡り、さらに予讃本線に乗らなければならない。
半日がかりの道中なのである。
それだけに。
照は帰省というものをほとんどしていない。
だが。
「ふるさとは遠きにありて思うもの…か」
トンネルだらけの車窓に目をやりながら、照は西へと目指していた。
夕刻。
とりあえず麻里菜は西大寺まで出たものの、このまま近鉄線で山ノ内に帰る気になれなかったらしく、空きのあった奈良駅のそばにある、ビジネスホテルにチェックインした。
いざとなれば奈良線でも戻れる。
そうしたゆとりが、麻里菜の顔から険を除いていったのかも分からない。
日没が近い。
綱渡りではあったが松山へ渡るフェリーに間に合った照は、それまで西日で灰色がかっていた島影が、陽の傾くにつれ、金色(こんじき)から茶、緋色、古代紫、藍色に移り変わる空と真っ黒なシルエットから宵闇に島が消えて行く姿を、デッキから眺めていた。
松山駅へ着く頃には夜で、宇和島行きの最終の急行に飛ぶように乗ると、
「…相変わらず遠いな」
照は呟いた。
ようやく照は仮眠を取れるようになっている。
照が起きると大洲は過ぎたようで、車内の案内板には次は卯之町とある。
「卯之町、かぁ」
卯之町から法華津の峠を越え、君ヶ浦に面した吉田の町を過ぎると、いよいよ宇和島である。
夜の宇和島の町は霧がかかっていた。
いきなり実家に帰るのも何となく気が引けたのか、駅前のカプセルホテルに照は泊まるという選択をしている。
翌朝。
カプセルホテルをチェックアウトした照は、城山を左手に海を目指した。
路地を歩いて行くと、空が開けてくる。
霧が晴れてきた。
路地の突き当たりには堤防があって、その堤防を平均台のように両の手を拡げながら照は歩くと、やがて宇和島湾と、まだおぼろ気な戎ヶ鼻の半島と、宇和海に浮かぶ小舟を望むことができる。
左手には造船所があって、真っ黒い貨物船と思われる船を建造しているようで、蟻のように小さく見える作業員が、慌ただしく船の上で動き回っていた。
後ろを振り向くと、小高い城山の鬱蒼とした森の上に小さな白亜の天守閣があって、山に目をやると蜜柑の段々畑が見える。
照は堤防に腰をおろした。
いつも受けていたはずの、懐かしく柔らかい潮風が吹いてくる。
膝を抱えて照が座ると、宇和島湾から吹いてくる海風を身に浴びながら、しばらくぼんやりと移ろう海の色を眺めていた。
その頃。
朝早くの奈良線で京都に戻った麻里菜は、地下鉄で四条まで出ると蛸薬師高倉の美容院まで、そのまま出勤した。
麻里菜がパスポートを取ったのは、それから間もなくである。
照は宇和島にいる。
歩いて宇和島駅へ戻ると、高松行きの列車が入る頃で、照は窓口で坂出経由の岡山まで行く切符を買って、少し待った。
岡山まで出れば新幹線がある。
待った。
銀色をした高松行きの列車が入ってくる。
乗った。
ベルが鳴る。
わずかに列車が動き始めた。
照は窓の外を眺めていたが、トンネルを抜けて宇和島の町が見えなくなると、そっぽを向いたまま、涙がこぼれ落ちるのをこらえている。
風景を見ているそぶりであった。
錦市場の総菜屋の店先で関東煮(かんとだき。おでんのこと)が並び始めた頃、麻里菜はパスポートの手続きで書類を取るために、奈良へ帰ったことがあった。
実家は郡山にある。
近鉄線で西大寺まで出て、橿原線に乗り継ぐと尼ヶ辻を過ぎてすぐに宅地の合間から、見慣れた古墳や、唐招提寺の伽藍の森が見えてくる。
西ノ京の薬師寺の塔を後ろへ飛ばし、車窓は九条の平野を走って、細長い池を右手に、郡山のプラットホームへと電車は滑り込む。
雨の上がった郡山の町は、変な飾り立てもない静かな町である。
麻里菜は歩いて、市役所を目指した。
いっぽう。
照はというと、上御霊前大宮の、通称をトキワ長屋と呼ばれたアトリエ村で絵筆が進まず、頭を抱え込んでいた。
麻里菜の面影がちらつくのである。
(なんで出てくる…!)
恐らく彼氏がいるのは、照でなくても勘がよければ察せられる。
だが。
こういった場合の対処など、照には分からない。
寝転がった。
視線の先には郷里の宇和島から携えてきた、母校のサッカーのユニホームがある。
目を閉じた。
しばらく瞑想していたが、
「…そうだ」
跳ね起きると照は、なぜか旅支度を始めた。
その頃。
麻里菜は無事にパスポートのための書類が取れ、少し時間があったので久しぶりに城跡まで歩いた。
踏切を越え三ノ丸の緑地を抜けると、鷺池の向こうに石垣が見えてくる。
ついでながら郡山の城跡は吉野山や東大寺に比べると奈良では隠れた桜の穴場で、観光客よりも地元の住民がよく行く。
麻里菜も幼稚園の時分、親に連れられ、花見をしたことがある。
下見板の張られた二層の隅櫓と古色蒼然とした桝形門は、麻里菜が子供の頃に見たそのままである。
一段高い石垣の上には神社があって、境内の樹々の繁りが開けた場所からは、はるかに若草山と春日大社の森をバックに、大仏殿の大屋根が見えた。
「…なんか、帰りたないなぁ」
麻里菜はこのまま京都へ戻るのが、億劫だと少し思ったらしい。
さて。
照は新幹線の中にあった。
手にはどういうことか広島行きの切符がある。
というのも。
宇和島は遠い町である。
京都からだとまず新幹線で広島へ行き、市電と船で宇品から松山へ渡り、さらに予讃本線に乗らなければならない。
半日がかりの道中なのである。
それだけに。
照は帰省というものをほとんどしていない。
だが。
「ふるさとは遠きにありて思うもの…か」
トンネルだらけの車窓に目をやりながら、照は西へと目指していた。
夕刻。
とりあえず麻里菜は西大寺まで出たものの、このまま近鉄線で山ノ内に帰る気になれなかったらしく、空きのあった奈良駅のそばにある、ビジネスホテルにチェックインした。
いざとなれば奈良線でも戻れる。
そうしたゆとりが、麻里菜の顔から険を除いていったのかも分からない。
日没が近い。
綱渡りではあったが松山へ渡るフェリーに間に合った照は、それまで西日で灰色がかっていた島影が、陽の傾くにつれ、金色(こんじき)から茶、緋色、古代紫、藍色に移り変わる空と真っ黒なシルエットから宵闇に島が消えて行く姿を、デッキから眺めていた。
松山駅へ着く頃には夜で、宇和島行きの最終の急行に飛ぶように乗ると、
「…相変わらず遠いな」
照は呟いた。
ようやく照は仮眠を取れるようになっている。
照が起きると大洲は過ぎたようで、車内の案内板には次は卯之町とある。
「卯之町、かぁ」
卯之町から法華津の峠を越え、君ヶ浦に面した吉田の町を過ぎると、いよいよ宇和島である。
夜の宇和島の町は霧がかかっていた。
いきなり実家に帰るのも何となく気が引けたのか、駅前のカプセルホテルに照は泊まるという選択をしている。
翌朝。
カプセルホテルをチェックアウトした照は、城山を左手に海を目指した。
路地を歩いて行くと、空が開けてくる。
霧が晴れてきた。
路地の突き当たりには堤防があって、その堤防を平均台のように両の手を拡げながら照は歩くと、やがて宇和島湾と、まだおぼろ気な戎ヶ鼻の半島と、宇和海に浮かぶ小舟を望むことができる。
左手には造船所があって、真っ黒い貨物船と思われる船を建造しているようで、蟻のように小さく見える作業員が、慌ただしく船の上で動き回っていた。
後ろを振り向くと、小高い城山の鬱蒼とした森の上に小さな白亜の天守閣があって、山に目をやると蜜柑の段々畑が見える。
照は堤防に腰をおろした。
いつも受けていたはずの、懐かしく柔らかい潮風が吹いてくる。
膝を抱えて照が座ると、宇和島湾から吹いてくる海風を身に浴びながら、しばらくぼんやりと移ろう海の色を眺めていた。
その頃。
朝早くの奈良線で京都に戻った麻里菜は、地下鉄で四条まで出ると蛸薬師高倉の美容院まで、そのまま出勤した。
麻里菜がパスポートを取ったのは、それから間もなくである。
照は宇和島にいる。
歩いて宇和島駅へ戻ると、高松行きの列車が入る頃で、照は窓口で坂出経由の岡山まで行く切符を買って、少し待った。
岡山まで出れば新幹線がある。
待った。
銀色をした高松行きの列車が入ってくる。
乗った。
ベルが鳴る。
わずかに列車が動き始めた。
照は窓の外を眺めていたが、トンネルを抜けて宇和島の町が見えなくなると、そっぽを向いたまま、涙がこぼれ落ちるのをこらえている。
風景を見ているそぶりであった。