【完】「逢ひみての」

照が京都へ戻ってきた。

すると。

人が変わったように画風も変わった。

傘に描くのは変わらない。

それまで虹を緻密に描いてゆくスタイルであったのが、いきなり一筆書きに近い絵に変わったのである。

「ちょっと技術的にはつたないが、絵としては気宇が大きい」

というので、にわかに照の作品の相場の値段が上がり始めた。

そんな頃。

珍しく麻里菜が照に「ちょっと一緒に買い物をお願いしたい」と言ってきたのである。

「いまいち男の人の好みとかが分からなくて」

この瞬間。

ひそかに照は、自分の勘が見事に当たったことを確定した。

不思議と悔しくはない。

ただ。

やっぱりな、という気持ちだけが、占領してゆくような感はあったらしい。

といって。

麻里菜をむげに扱う理由もない。

約束だけは、快諾した。



待ち合わせの日。

今さら飾ってもしょうがないと思ったのか、照は普段通りのパイロットブルゾンにジーンズで待った。

麻里菜が来た。

「じゃーん」

白いダッフルコートがよく似合う、照にはキラキラと輝いているように感じられた。

「何だか麻里菜ちゃんキラキラしてるなあ」

照はそのまま言った。

「…えっ?」

麻里菜は面食らった。

「パイロットブルゾンやなんて、照さんかてお洒落やん」

「うーん」

照には口の重い時がある。

「そうかなぁ」

「とにかく行こ」

麻里菜は照の手を引いた。

「プレゼントって何がいいかな?」

「ネクタイとかは?」

「できれば定番やないのがいいなぁ」

「…じゃ、帽子は?」

「それいいかも」

銀行の脇の路地を道なりに抜けて映画館の角を右へ。

錦天満宮の角を折れると、新京極である。

「この先に、自分がたまに寄り道する古着屋がある」

「古着…照さんやっぱりお洒落やんか」

少し歩いた先に古着屋があった。

古着屋で帽子を見繕って、照がピックアップした候補から麻里菜が選んだのは、米沢織の帯をリメイクしたという淡い藍色のキャップである。

「送るのが外国人だったら、和柄なものを送った方が喜ぶんじゃないかな」

という照の発案である。

「なんか付き合わせてゴメン」

「気にしてないよ。むしろ気分転換になったし」

店を出て、麻里菜と照は鴨川の河畔へ出た。

陽射しが柔らかい。

「照さんってさ、彼女つくらないの?」

「欲しいのはあるけど」

フラれたばっかりだしね、と照は複雑に笑ってみせた。

「まぁそれじゃ、そういう気持ちにならへんよね」

麻里菜は申し訳なさそうに眉間にしわを寄せた。

「まぁ今は仕事も楽しいし、恋愛は駄菓子のおまけみたいなもんだからね」

「駄菓子のおまけ?」

いいのに当たればラッキー、でも時にはスカもある…という照に、

「じゃあ、あたしは?」

「きっと麻里菜ちゃんは、大当たりの彼氏さんを引いたんだと思う」

だから大事にしないとダメだよ、と照は言った。

「ありがと照さん」

照がダニエルを認めてくれたのが、麻里菜は嬉しかったようで、気づいた時には鼻唄を歌っていた。



夜。

何か閃いたのか、照は傘のキャンバスに下書きなしでいきなり描き始めた。

細やかな線である。

前に筆屋で買った雛人形の目を描く極細の筆で、細密に線を入れてゆく。

どうやら動物らしい。

当たり前だが一日では仕上がらない。

寝るのも食べるのも忘れてひたすら描き続け、遂に五日目の夜が明けた。

最後に。

睛(ひとみ)を入れた。

真っ黒な傘の裏側には、豊かな羽をまとった白孔雀が描かれてある。

目は赤い。

眼光鋭く、しかしどこか王者のような余裕すら透けて見える白孔雀が、そこにいる。

照は精も根も尽き果てたのか、描き切ると引っくり返ってしまい、そのまま翌日の朝までぐっすり眠りこけていた。



しばらくすると…。

照が描いた白孔雀の絵傘は、たちまち上御霊前大宮のアトリエ村に出入りをするバイヤーや画商のあいだで話題になった。

「こもる気魄が違う」

というのである。

──あんな絵が描けるのは昔なら二天(宮本武蔵)か若冲、今ならトキワ長屋の瀬戸口しかない。

という者もあった。

「自分は二天や若冲ほどの者ではない」

照は言った。

「ぜひうちの画廊に」

という画商や、美術館から来たバイヤーも何人かあったが、

「これは行く先が決まってますので」

と断ってしまっている。

当然ながら、

「あの白孔雀はどこへゆくのか」

というのが、西陣の芸術家のあいだでは、ここ一ヶ月近く噂となっている。

饗庭センセがその噂を聞いたのは、さらに半月ほどした頃、年が明けてからである。

数日後。

織部寺に依頼された写真を納品した饗庭センセは、帰りに近所だからというので上御霊前大宮のトキワ長屋を訪ねた。

すでに照は新作に取り掛かっている。

「ひさびさだなぁ」

「瀬戸口も元気そうやな」

少し痩せたか、と訊いたが要領を得なかった。

「例の白孔雀の噂、スゴいことなってんで」

「そうか?」

…もしかして麻里菜ちゃんにプレゼントするんか?──いきなり饗庭センセは衝いてみた。

「そうだ」

だが厳密には違う、という。

「麻里菜ちゃんの…もしかすると、前に聞いた外国人の彼氏さんか?」

「あぁ」

そうだ、と照は言った。

「何でそこまで…」

「自分が彼女にしてあげられるのは、このぐらいしかない」

「…さよか」

饗庭センセは言葉が見つからないでいる。

口では諦めた、と言う照だが、決して諦めてなんかはいないのであろう。

でも。

絵という武器で勝負を仕掛けてくる照は、画家というより刀を絵筆に持ち替えた侍のように、饗庭センセには映ったらしい。

饗庭センセは、

「まぁ、うちら芸術屋にすれば作品は、合戦の結果やもんな」

それだけいうと、静かにトキワ長屋をあとにした。



春が近い。

なかなか連絡がつかなかった麻里菜に、ようやく例の白孔雀の傘を渡す段取りがついた。

照にすれば勇気の要った話ではあったらしいが、

「そんな、気にせんくてもいいのに」

そう麻里菜に言われてしまうと、照は拍子抜けしてしまった。



鴨川の堤で落ち合うと、照は麻里菜に、

「これ…描いてみた」

麻里菜が拡げると、例の白孔雀が美しく描かれてある。

「描いたの?」

「麻里菜ちゃんとダニエルさんに使ってもらいたくて描いた」

初めて麻里菜はこのとき、照の深意が分かったような気がした。

「そのことなんやけど」

ダニエルに逢えなくなっちゃったんよ、と麻里菜は言った。

「えっ…?」

「これ、読んでみて」

渡されたのは、一通の英文の手紙である。

「英語苦手やったけど、何とか翻訳のソフト使って読んでみた」

日本語に訳された紙を読んだ。

「昨日来て、まさかって思ったけど…訓練中の事故やから、どうしようもないよね」

照が読み進めると、

「銃の暴発」

とある。

完全に事故ではないか。

「それならダニエルさんは…?」

麻里菜は頷いた。

ひどく落ち込んでいる。

照は天を仰いだ。

みずからの行動を、この時ほど後悔したことはなかったらしい。

「ごめん…何も知らなくて、無神経なことやった」

「うぅん、照さんが悪い訳やないから、謝らなくていいよ」

とは言ったが、声は涙で湿っている。

麻里菜は立ち上がった。

少し離れた。

身動きできずに、照はたたずんだままである。

「照さんが優しいから、それが余計ちょっとツラかったりする」

でもね、と麻里菜はいう。

「照さんは悪くない。うちがどうしたらいいか、分からんだけやから」

折から小雨である。

照はなすすべもなく、ただ立ち尽くしていた。



春だというのに肌寒い日、照がアトリエ村の長屋を引き払った…というので、書画会の席ではちょっとした騒ぎが起き始めていた。

──夜逃げでもしたんちゃうか?

というのである。

古くから夜逃げ先の定番は関西だと場所の相場が決まっており、バイヤーの一人が探し回ったらしいが、見つからなかった。

饗庭センセは真相を何も聞いてなかったらしく、

「どないなっとんねん?」

と訊いてしまうほどであった。

事実。

エマが上御霊前大宮へ様子を窺ってみると、裳抜けの空なのである。

まして。

麻里菜が聞いたのはさらにしばらくしてからで、その頃にはダニエルの陣没の件も気持ちに整理がついてきていたのもあって、

「…もしかしたらあたしのせいかな?」

というのはあった。

が。

麻里菜には思い当たる節もなかった。



数日して。

麻里菜が西陣にやって来た。

饗庭センセがいる。

「なんや、そんなお通夜みたいな湿った顔して」

麻里菜はみるみる表情が歪んだ。

(これは泣くんか)

泣かないでほしいという饗庭センセの希望は打ち砕かれた。

「ごめん…きついこと言うてもうた」

「こちらこそすいません」

玄関前で泣きじゃくられて、饗庭センセはいたたまれない気持ちになってしまったのか、

「ひとまず入り」

麻里菜を招き入れた。



ダニエルの訃報を聞いて饗庭センセは驚くやら不憫やら忙しい顔をした。

「彼氏がおったのも知らんかったし、まさか外国人の彼氏さんがそないなことになるとはなぁ…」

ただなぁ…と饗庭センセは言う。

「切り替えやって言うたかて変わらんのが人間で、きっとしばらくは引き摺るかも知らんけど、瀬戸口みたく引き摺りすぎるのも何やから、整理が大事やで」

というと、茶を口にしてから語り始めた。

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