美しい月
6
空港で弟と合流した美月は、ロンドン行きの便に搭乗した。サイードもシャーラムに帰国する自家用機の中だろうかと考えて、美月は頭を振る。もう忘れると決めたのだから。
「久流美さんてすごいよな。未来の伯爵夫人になるんだろ?」
「そうね」
「しかも城に住んでるとか…ちょっと桁外れ」
「東洋のシンデレラって呼ばれてるみたいだね」
空港からはヴォルフ家の迎えの車で、エンパイアホテルに向かう。従姉妹である遠野久流美の夫であるウィリアムがオーナーのホテルだ。今日明日はホテルだが残り二泊はウィリアムの私邸に泊まる。
「美月、陽輝いらっしゃい」
「久し振り、久流美」
ホテルで出迎えてくれたのは、久流美本人だ。
『紹介しておくわね、彼がウィリアムよ。ウィリアム、従姉妹のミツキと弟のヨウキ』
『はじめまして、ようこそお出で下さいました』
長身で品のある優しげな男は、久流美の夫。物腰柔らかな正に英国紳士だ。同じ外国人でも、砂漠の民とは全く違う。無意識に比較が始まっていた事に、美月はもう呆れるしかない。
『叔父様たちはもう観光に行かれたわ』
『じゃあ俺も、あちこち見てくる。姉ちゃん、どうする?』
『私は部屋にいるよ』
『じゃあ美月を案内してくるわ』
久流美と共にホテルを歩く。
「ねぇ美月?もしかして…恋、してる?」
「え!?」
「やっぱり。美月は仕事してないとすぐ顔に出る」
「…そう、かな?」
部屋はダブルだが、そこを一人で使わせてもらえるようだ。
「何か…辛い恋?」
「久流美、仕事…」
「少しだからいいの。相手はどんな人?」
「…恋、って言うか…多分相手にはアバンチュールみたいなものだったと思う」
ベッドに並んで腰掛けた二人。俯く美月に向き直った久流美は、静かに話を聞いていた。
「…離れてから深く理解する事って多いよね。私もそうだったからよくわかるよ。躯が繋がると特にね」
「…うん。声を聞いた気がして目が覚めたり、彼の匂いを感じたり…」
「今なら…好き?」
「傾いては…いるんだと思う…でもアラブの人だし、王族だから…」
「ハレム、とか…」
「うん。日本とは常識が違うから…私はそんなの嫌だし」
「そうだね…アラブ諸国は特殊ではあるから」
慰めるように背中を撫でてやる。
「もう…嫌なのに」
「大丈夫、二度と同じ事は起きないわ」
久流美は何度か「大丈夫」を繰り返してくれた――。
ロンドンで有名なレストランで待ち合わせ、久々に呉原家揃って食事をした。
「二人とも仕事はどうなんだ?」
「俺は順調だぜ?」
陽輝の職業はSE…システムエンジニアだ。
「そうだ美月、アラブの方に親しい方いるの?」
「え…?」
「美月宛に荷物が届いてたから、持ってきたの。ホテルに帰ったら渡すわね」
「ぁ、うん…」
間違いなく彼だろう。だがいつの間に自宅ではなく実家を突き止めたのだろうか。気も漫ろに食事を終え、ホテルで両手の上に乗るサイズの箱を渡された。
部屋に戻り、よく確認すれば差出人はシャーラムのアッシーラ、カシムの名になっている。指先が震える。手こずりながらも頑丈な箱の梱包を開封する。
「…ワレモノ、なの?」
発泡スチロールの箱が現れ、蓋を外す。
「っ…!?」
ふわりと覚えのない甘やかな花の香りがして、背筋が震える。彼の香りでもないのに肌を撫でられる感覚が蘇った。中身は複雑にカットされたガラスの小瓶。前面には花を纏った三日月を抱いた鷹の印がある。
「まさか…私、の…?」
彼が美月の香りを作らせると言っていた。瓶の蓋を取れば、一層香る。甘い花の香りから瑞瑞しい柑橘の香りへ…。
「っ…サ……」
ここにありもしない彼の香りがどこからか漂う。それは次第に混ざり合い、官能を呼び覚ます。
「ぁ……」
堪らず頽れる。自身を抱き締めて、その衝動に耐える。落とした小瓶からは、更に官能を擽る香りが溢れる。
「っ、どうして…どうして!」
ここにいないくせに、美月にばかり強く思い出させる。まだ忘れられる程の時間は過ぎていない。それだけ強烈な存在だった。
「もう…消えて…」
その夜、美月は泣き暮れた。
ロンドン郊外にあるヴォルフ夫妻の城には、親族や賓客のみが宿泊する。広い庭で開かれるガーデンウェディング。温かな陽射しすら、二人を祝福しているように思われる。
「浩ちゃん」
「みー」
一歳半を過ぎた久流美の姉、楓の子を、美月は預かっていた。介添えとして久流美に付くので見ていられず、他に預ける相手もいない。
「ママはくーちゃんのお手伝いだから、もうちょっとだけみーで我慢ね?」
「みー」
浩太と会うのは正月以来だが、人見知りをしないのか、美月に抱かれていても泣き出しもしない。嬉しげに美月を【みー】と呼んでくれる。
式の間、美月はどこからか違和感を感じていた。視線なのか気配なのか、余りよいものではない。何度も周りを確認するのだが、それらしきは見当たらない。
『ミツキ、コウタは大丈夫かい?』
『ミスタートレマー、大丈夫ですよ』
『すまないな』
『まるで本当のお父さんですね』
「久流美さんてすごいよな。未来の伯爵夫人になるんだろ?」
「そうね」
「しかも城に住んでるとか…ちょっと桁外れ」
「東洋のシンデレラって呼ばれてるみたいだね」
空港からはヴォルフ家の迎えの車で、エンパイアホテルに向かう。従姉妹である遠野久流美の夫であるウィリアムがオーナーのホテルだ。今日明日はホテルだが残り二泊はウィリアムの私邸に泊まる。
「美月、陽輝いらっしゃい」
「久し振り、久流美」
ホテルで出迎えてくれたのは、久流美本人だ。
『紹介しておくわね、彼がウィリアムよ。ウィリアム、従姉妹のミツキと弟のヨウキ』
『はじめまして、ようこそお出で下さいました』
長身で品のある優しげな男は、久流美の夫。物腰柔らかな正に英国紳士だ。同じ外国人でも、砂漠の民とは全く違う。無意識に比較が始まっていた事に、美月はもう呆れるしかない。
『叔父様たちはもう観光に行かれたわ』
『じゃあ俺も、あちこち見てくる。姉ちゃん、どうする?』
『私は部屋にいるよ』
『じゃあ美月を案内してくるわ』
久流美と共にホテルを歩く。
「ねぇ美月?もしかして…恋、してる?」
「え!?」
「やっぱり。美月は仕事してないとすぐ顔に出る」
「…そう、かな?」
部屋はダブルだが、そこを一人で使わせてもらえるようだ。
「何か…辛い恋?」
「久流美、仕事…」
「少しだからいいの。相手はどんな人?」
「…恋、って言うか…多分相手にはアバンチュールみたいなものだったと思う」
ベッドに並んで腰掛けた二人。俯く美月に向き直った久流美は、静かに話を聞いていた。
「…離れてから深く理解する事って多いよね。私もそうだったからよくわかるよ。躯が繋がると特にね」
「…うん。声を聞いた気がして目が覚めたり、彼の匂いを感じたり…」
「今なら…好き?」
「傾いては…いるんだと思う…でもアラブの人だし、王族だから…」
「ハレム、とか…」
「うん。日本とは常識が違うから…私はそんなの嫌だし」
「そうだね…アラブ諸国は特殊ではあるから」
慰めるように背中を撫でてやる。
「もう…嫌なのに」
「大丈夫、二度と同じ事は起きないわ」
久流美は何度か「大丈夫」を繰り返してくれた――。
ロンドンで有名なレストランで待ち合わせ、久々に呉原家揃って食事をした。
「二人とも仕事はどうなんだ?」
「俺は順調だぜ?」
陽輝の職業はSE…システムエンジニアだ。
「そうだ美月、アラブの方に親しい方いるの?」
「え…?」
「美月宛に荷物が届いてたから、持ってきたの。ホテルに帰ったら渡すわね」
「ぁ、うん…」
間違いなく彼だろう。だがいつの間に自宅ではなく実家を突き止めたのだろうか。気も漫ろに食事を終え、ホテルで両手の上に乗るサイズの箱を渡された。
部屋に戻り、よく確認すれば差出人はシャーラムのアッシーラ、カシムの名になっている。指先が震える。手こずりながらも頑丈な箱の梱包を開封する。
「…ワレモノ、なの?」
発泡スチロールの箱が現れ、蓋を外す。
「っ…!?」
ふわりと覚えのない甘やかな花の香りがして、背筋が震える。彼の香りでもないのに肌を撫でられる感覚が蘇った。中身は複雑にカットされたガラスの小瓶。前面には花を纏った三日月を抱いた鷹の印がある。
「まさか…私、の…?」
彼が美月の香りを作らせると言っていた。瓶の蓋を取れば、一層香る。甘い花の香りから瑞瑞しい柑橘の香りへ…。
「っ…サ……」
ここにありもしない彼の香りがどこからか漂う。それは次第に混ざり合い、官能を呼び覚ます。
「ぁ……」
堪らず頽れる。自身を抱き締めて、その衝動に耐える。落とした小瓶からは、更に官能を擽る香りが溢れる。
「っ、どうして…どうして!」
ここにいないくせに、美月にばかり強く思い出させる。まだ忘れられる程の時間は過ぎていない。それだけ強烈な存在だった。
「もう…消えて…」
その夜、美月は泣き暮れた。
ロンドン郊外にあるヴォルフ夫妻の城には、親族や賓客のみが宿泊する。広い庭で開かれるガーデンウェディング。温かな陽射しすら、二人を祝福しているように思われる。
「浩ちゃん」
「みー」
一歳半を過ぎた久流美の姉、楓の子を、美月は預かっていた。介添えとして久流美に付くので見ていられず、他に預ける相手もいない。
「ママはくーちゃんのお手伝いだから、もうちょっとだけみーで我慢ね?」
「みー」
浩太と会うのは正月以来だが、人見知りをしないのか、美月に抱かれていても泣き出しもしない。嬉しげに美月を【みー】と呼んでくれる。
式の間、美月はどこからか違和感を感じていた。視線なのか気配なのか、余りよいものではない。何度も周りを確認するのだが、それらしきは見当たらない。
『ミツキ、コウタは大丈夫かい?』
『ミスタートレマー、大丈夫ですよ』
『すまないな』
『まるで本当のお父さんですね』