美しい月
そんな美月に近付いて来たのは、久流美の夫の秘書であるサイクスだ。同じ職業であるせいか、初対面でもとても気安い相手だった。浩太を抱き上げると、表情が緩む。楓に好意があるらしいのが見えた。
『そう…見えるか?』
『勿論。浩ちゃんもよく懐いてるし、目がすごく優しくなるから』
『っ、そう、なのか?』
『無自覚ですね』
『わかるわけがないだろう?さて…もう暫く頼んでも構わないか?』
『はい』
浩太を抱き受け、小さな手を支えてサイクスに手を振ってやった。
式が終わった頃には、浩太はすっかり夢の中だ。楓に浩太を返し、美月は一人で城の中を歩いていた。
『ミツキ、ディナーはどうするんだ?』
後ろから声を掛けて来たのはサイクスで。
『ランチを欲張っちゃったから、ダイエット』
『それは君に必要か?』
『ミスタートレマーは女心がわからないのね』
『それは失敬。フルーツくらいなら用意はある。いつでも言ってくれ』
『ありがとう』
礼だけ言うと、美月はまた歩き出した。歩く先の突き当たりにT字路があり、右に行けば美月ら親族の部屋、左は賓客の部屋があるらしい。
その道を右に折れようとした途端、口を塞がれ鼻腔いっぱいに香るのは疼きを呼ぶあの香り――。
口を塞がれたまま、美月の行きたい方とは逆に後ろ歩きで引っ張られていく。視界は塞がれていないので、通路の最奥に向かっているのがわかる。案の定、最奥の部屋に入り、扉が閉められると、そのまま背後からきつく抱き締められた。胸が苦しい。
耳元に荒い息遣いで、背中から伝わる心音は激しい。
『ミ、ツキ…』
『っ』
『俺の…美しい、月…』
たった数日聞かなかっただけの声は、驚く程の勢いで美月に浸透する。
『まさか…ここで会えるとは…ミツキ』
『…っ、サ…イード殿、下』
何故サイードがここにいるのかが理解出来ない。
『アールヴォルフはシャーラムの系列ホテル、シャーラム・インペリアルのオーナーだ。誘致したのは俺だからな』
だから今回も招待を受けていた。式の会場であった庭で、美月を見つけるまで、美月が新婦の親族である事は知らなかったのだ。だがそれも嬉しい誤算だ。
たった数日でサイードは限界だった。本国での公式式典では、珍しく慣れたはずの手順を間違えたし、スピーチの台詞ですら一瞬飛んだ。
『ミツキ…お前が見えない生活は苦痛だ。傍にいてくれ』
『っ』
『シャーラムにお前の為の手筈は整えた…一度、見に来るといい』
漸く抱き締める腕を緩めて、真正面から美月を見つめた。
『…ダイエットなどと言い訳をするな』
『っ…聞いて……』
『アールヴォルフの秘書と…随分親しげにしていたな。あれは…一体誰の子だ』
サイードが睨むように鋭い視線を向けて来る。
『か、楓さん、の…』
『カエデ…確か、新婦の姉…だっか?』
何度か頷くと、納得したように息を付いて頤を掬う。
『ミツキは…どうしていた?俺に会えない間…』
『ゎ、私は…普通、に』
『俺は…お前を思い出すたびに躯を激しく疼かせた。お前を想って自慰に耽りもした』
衝撃発言だった。王子がそんな事をしたなどと告白したのだ。
『今も…思いがけずお前に会えて…喜びに弾けそうだ』
額にキスが落とされた。以前のサイードなら、あと数歩先にあるベッドに美月を連れ入って、驚く程丁寧な愛撫が始まっていただろう。だがそうしようとはしない。唇に触れようとすらしないのだ。
『ミツキ…もう合意なしには抱かない。だから…手伝ってくれ』
『手伝い…?』
『俺を背中から抱き締めて、名を呼んでくれ』
ミツキをベッドの前に招き、サイードは背を向けてベッドに胡座をかいた。
『ミツキ…それだけでいい。だから、頼む』
初めて自分からサイードに腕を伸ばす。首に腕を絡め、背中にぴたりと張り付く。
『…サイード』
『あぁ…ミツキ、もっと呼んでいてくれ』
『サイード…サイード』
暫く呼んでいると、躯が小刻みに揺れ始める。体温が上がったからか、サイードの香りが強くなる。野性を思わせる男の香りだ。
『ミ、ツキ…っ』
吐き出される息は熱く苦しげで、美月はサイードの体調を案じた。
『サイード…?』
『は…、…』
サイードの左手が、首に絡めた腕を掴んだ。痛みはないが、苦しそうな呼吸は尋常でない気がした。
『サイード、大丈夫ですか?』
『っ、ミツキ…俺の…ミツキっ』
首を伸ばして、表情を確かめるだけのつもりだった。だが視界には、サイードの右手の動きまでが映り込んでしまった。
『ミツキっ、く…』
自身の欲望を擦り上げ、快楽を貪っていたのだ。何もかも思うがままのはずの、王位継承権を持つ王子が自慰に耽っている。肌が粟立ち、胸が騒ぐ…嫌悪や同情でない、別の何かで。
『サイードっ』
『…想う、だけでは…満たされない…っ、せめて…お前の何かを…』
虚しいだけだ。サイードならば相手くらい、いくらでも簡単に見つかるはず。ではそうしない理由は?
『お前から与えられるものでなら…達するに手間はかからん』
『ど、うして…っ』
『お前を…愛している、だから…お前に愛されたい』
『ぁ……』
『求められたいと…願った。だが…堪え性もなくこんな行いをする男に、美しい月が惹かれるわけがなかった』
美月の腕を掴んでいた左手が、首に絡む腕を解かせた。
『そう…見えるか?』
『勿論。浩ちゃんもよく懐いてるし、目がすごく優しくなるから』
『っ、そう、なのか?』
『無自覚ですね』
『わかるわけがないだろう?さて…もう暫く頼んでも構わないか?』
『はい』
浩太を抱き受け、小さな手を支えてサイクスに手を振ってやった。
式が終わった頃には、浩太はすっかり夢の中だ。楓に浩太を返し、美月は一人で城の中を歩いていた。
『ミツキ、ディナーはどうするんだ?』
後ろから声を掛けて来たのはサイクスで。
『ランチを欲張っちゃったから、ダイエット』
『それは君に必要か?』
『ミスタートレマーは女心がわからないのね』
『それは失敬。フルーツくらいなら用意はある。いつでも言ってくれ』
『ありがとう』
礼だけ言うと、美月はまた歩き出した。歩く先の突き当たりにT字路があり、右に行けば美月ら親族の部屋、左は賓客の部屋があるらしい。
その道を右に折れようとした途端、口を塞がれ鼻腔いっぱいに香るのは疼きを呼ぶあの香り――。
口を塞がれたまま、美月の行きたい方とは逆に後ろ歩きで引っ張られていく。視界は塞がれていないので、通路の最奥に向かっているのがわかる。案の定、最奥の部屋に入り、扉が閉められると、そのまま背後からきつく抱き締められた。胸が苦しい。
耳元に荒い息遣いで、背中から伝わる心音は激しい。
『ミ、ツキ…』
『っ』
『俺の…美しい、月…』
たった数日聞かなかっただけの声は、驚く程の勢いで美月に浸透する。
『まさか…ここで会えるとは…ミツキ』
『…っ、サ…イード殿、下』
何故サイードがここにいるのかが理解出来ない。
『アールヴォルフはシャーラムの系列ホテル、シャーラム・インペリアルのオーナーだ。誘致したのは俺だからな』
だから今回も招待を受けていた。式の会場であった庭で、美月を見つけるまで、美月が新婦の親族である事は知らなかったのだ。だがそれも嬉しい誤算だ。
たった数日でサイードは限界だった。本国での公式式典では、珍しく慣れたはずの手順を間違えたし、スピーチの台詞ですら一瞬飛んだ。
『ミツキ…お前が見えない生活は苦痛だ。傍にいてくれ』
『っ』
『シャーラムにお前の為の手筈は整えた…一度、見に来るといい』
漸く抱き締める腕を緩めて、真正面から美月を見つめた。
『…ダイエットなどと言い訳をするな』
『っ…聞いて……』
『アールヴォルフの秘書と…随分親しげにしていたな。あれは…一体誰の子だ』
サイードが睨むように鋭い視線を向けて来る。
『か、楓さん、の…』
『カエデ…確か、新婦の姉…だっか?』
何度か頷くと、納得したように息を付いて頤を掬う。
『ミツキは…どうしていた?俺に会えない間…』
『ゎ、私は…普通、に』
『俺は…お前を思い出すたびに躯を激しく疼かせた。お前を想って自慰に耽りもした』
衝撃発言だった。王子がそんな事をしたなどと告白したのだ。
『今も…思いがけずお前に会えて…喜びに弾けそうだ』
額にキスが落とされた。以前のサイードなら、あと数歩先にあるベッドに美月を連れ入って、驚く程丁寧な愛撫が始まっていただろう。だがそうしようとはしない。唇に触れようとすらしないのだ。
『ミツキ…もう合意なしには抱かない。だから…手伝ってくれ』
『手伝い…?』
『俺を背中から抱き締めて、名を呼んでくれ』
ミツキをベッドの前に招き、サイードは背を向けてベッドに胡座をかいた。
『ミツキ…それだけでいい。だから、頼む』
初めて自分からサイードに腕を伸ばす。首に腕を絡め、背中にぴたりと張り付く。
『…サイード』
『あぁ…ミツキ、もっと呼んでいてくれ』
『サイード…サイード』
暫く呼んでいると、躯が小刻みに揺れ始める。体温が上がったからか、サイードの香りが強くなる。野性を思わせる男の香りだ。
『ミ、ツキ…っ』
吐き出される息は熱く苦しげで、美月はサイードの体調を案じた。
『サイード…?』
『は…、…』
サイードの左手が、首に絡めた腕を掴んだ。痛みはないが、苦しそうな呼吸は尋常でない気がした。
『サイード、大丈夫ですか?』
『っ、ミツキ…俺の…ミツキっ』
首を伸ばして、表情を確かめるだけのつもりだった。だが視界には、サイードの右手の動きまでが映り込んでしまった。
『ミツキっ、く…』
自身の欲望を擦り上げ、快楽を貪っていたのだ。何もかも思うがままのはずの、王位継承権を持つ王子が自慰に耽っている。肌が粟立ち、胸が騒ぐ…嫌悪や同情でない、別の何かで。
『サイードっ』
『…想う、だけでは…満たされない…っ、せめて…お前の何かを…』
虚しいだけだ。サイードならば相手くらい、いくらでも簡単に見つかるはず。ではそうしない理由は?
『お前から与えられるものでなら…達するに手間はかからん』
『ど、うして…っ』
『お前を…愛している、だから…お前に愛されたい』
『ぁ……』
『求められたいと…願った。だが…堪え性もなくこんな行いをする男に、美しい月が惹かれるわけがなかった』
美月の腕を掴んでいた左手が、首に絡む腕を解かせた。