美しい月
『…もう行け。そろそろ舞踏会が始まる』
サイードは背を向けたまま反対側から降りて、一度も美月を振り返る事なく、室内の扉の一つに姿を消した。
『…っ』
胸が苦しくて堪らない…サイードが自分を見ない。そうして離れて初めて、美月自身の躯も疼いていた事を知らされた。硬い胸、力強い腕、熱い体温にあの香り…サイードは美月を愛しているとも言った。いつからなのかもわからないが、ただ嘘を言っているようには思えなかった。
「美月?探してたのよ?どうしたの?」
部屋には久流美が舞踏会用のドレスを手に、美月を待っていた。
「っ…サイードが…」
「まさか…あの話のお相手って…サイード殿下だったの!?」
部屋に入ってすぐに頽れた美月をそっと支えれば、彼女は小さく頷いた。
「数日ぶりだけど、会って…どうだった?」
「愛、してる…って」
「うん」
「苦しく、なっちゃって…わけがわからなくて」
「うん」
相槌を打って、話を聞いてやる。美月は戸惑いばかりが大きいようだ。
「ねぇ美月?このまま…殿下と会えなくなってもいいの?」
「…仕方ない、から」
「違う。美月はどうしたいかを訊いてるの。そこまで殿下に言わせておいて、なかった事にするつもり?」
「…そ、れは…」
「美月が怖がってるのは知ってるわ。でも殿下は彼じゃない」
久流美は美月が傷付いた恋を知っていた。立ち直るのに時間が掛かった事も。
「美月の事、殿下に話して差し上げた?」
ふるふると否定する。
「きっと殿下は知りたいと思ってらっしゃるわ。それこそ美月に関わる事なら何でも」
「…私の話、なんて…」
「今の殿下にはどんな些細な美月の話も、大切で必要なのよ」
「…もう行け、って…」
「男にも事情がいろいろとあるのよ」
ドレスをベッドに置き、ドレッサーに向かった久流美が手にしたのは、あの小瓶だ。
「シャーラムの王族ではね?男性から女性に贈る、特別に調香された香の一番の主成分は愛なのよ」
蓋を外すと、サイードがイメージしていたままの香りが漂う。
「美月にぴったりの香りね。ウィリアムから聞いたんだけど、最近殿下は御印を変えられたそうよ。そしてこの瓶の御印の鷹は殿下専用なんですって。鷹が抱える花を纏った三日月はこれまで存在しなかったはずだから、美月の為で間違いないわ」
「…、……」
「鷹と月…二つの御印を一つにした御印が出来る理由はたった一つだけ…殿下が美月を正妻として迎える用意があるって事よ。殿下の公式な御印はこれになるの」
美月の手に瓶を握らせた久流美は、支えて立ち上がらせる。
「ちゃんと聞いて頂きなさい?日本で強引だった殿下が、美月の合意を待っていて下さるのよ?ほら、着替えて。ヘアメイクスタッフも待ってる。仕上げはその香ね」
久流美と入れ代わるように、ヘアメイクスタッフが入室し、美月を仕上げていく。柔らかなクリーム色のドレスは光沢があり、肩紐はなく背中はざっくりと開いたデザインだ。緩やかにアップにされた髪はどこか隙だらけに見え、淡いピンクのルージュが唇をぷっくりさせていた。
「姉ちゃん、遅……姉ちゃん!?」
「何そのリアクション」
「別人が出て来たかと思った」
「残念ね」
「久流美さんからエスコート頼まれてさ。つか…姉ちゃん、香水?」
待ち構えていた陽輝が匂いに気付く。
「さっき母さんからもらってた荷物の?」
「ぁ、うん」
「珍しい匂いだけど…姉ちゃんの事よく知ってる人がくれたのか?よく合ってると思うぞ」
実の弟までもが美月に合うと言う。会場となるホールに向かうと、美月は密かに招待客の注目を集めていた。
「久流美さんから、虫よけに付いてろって言われてんだけど…何でだ?」
「虫よけって…」
「姉ちゃんてダンス出来んのか?」
「正直、自信ない」
「んじゃあテラスから庭に出てようぜ」
陽輝にエスコートされるまま、人気のない庭に出た。すると二人の後ろから声が掛かった。
『ミツキ』
「ちょ…姉ちゃん名指し…てかあれ…確かアラブの王子様なんじゃ…って姉ちゃん!?香水の贈り主ってまさか…」
「ぁ、その…」
『ミツキ、彼は?』
『はじめまして。ヨウキ・クレハラ…ミツキの弟です』
『失礼した…弟君か…サイードだ』
何事もなかったかのようにシェイクハンドしに近付いたサイードが、何かに気付いて美月を見た。
『っ…ミ、ツキ…?』
『殿下、虫よけにいただけですので、姉をお願いしても?』
『任せてくれ』
『では』
「陽輝!」
「親父んとこ行ってる」
離れようとした陽輝を追う態勢だった美月だが、簡単にサイードに捕らえられた。
『さっきはすまない…あんな言い方を…もしあのままでいたら、また…俺は同じ事を繰り返していた』
正装のサイードは凛々しさを増していた。
『…何故、それを付けてくれた?気に入らなかったのだろう?』
『え…?昨日、母から受け取ったばかりだったから…』
『…昨日?』
『実家に届いて…私は別のところに住んでいるから』
サイードは頭を抱えた。
『家が違うのか……ならば何故?それを付けたわけを…』
『久流美から…ちゃんと話をするように言われて…私の事は何も、話していなかったし…』
サイードは背を向けたまま反対側から降りて、一度も美月を振り返る事なく、室内の扉の一つに姿を消した。
『…っ』
胸が苦しくて堪らない…サイードが自分を見ない。そうして離れて初めて、美月自身の躯も疼いていた事を知らされた。硬い胸、力強い腕、熱い体温にあの香り…サイードは美月を愛しているとも言った。いつからなのかもわからないが、ただ嘘を言っているようには思えなかった。
「美月?探してたのよ?どうしたの?」
部屋には久流美が舞踏会用のドレスを手に、美月を待っていた。
「っ…サイードが…」
「まさか…あの話のお相手って…サイード殿下だったの!?」
部屋に入ってすぐに頽れた美月をそっと支えれば、彼女は小さく頷いた。
「数日ぶりだけど、会って…どうだった?」
「愛、してる…って」
「うん」
「苦しく、なっちゃって…わけがわからなくて」
「うん」
相槌を打って、話を聞いてやる。美月は戸惑いばかりが大きいようだ。
「ねぇ美月?このまま…殿下と会えなくなってもいいの?」
「…仕方ない、から」
「違う。美月はどうしたいかを訊いてるの。そこまで殿下に言わせておいて、なかった事にするつもり?」
「…そ、れは…」
「美月が怖がってるのは知ってるわ。でも殿下は彼じゃない」
久流美は美月が傷付いた恋を知っていた。立ち直るのに時間が掛かった事も。
「美月の事、殿下に話して差し上げた?」
ふるふると否定する。
「きっと殿下は知りたいと思ってらっしゃるわ。それこそ美月に関わる事なら何でも」
「…私の話、なんて…」
「今の殿下にはどんな些細な美月の話も、大切で必要なのよ」
「…もう行け、って…」
「男にも事情がいろいろとあるのよ」
ドレスをベッドに置き、ドレッサーに向かった久流美が手にしたのは、あの小瓶だ。
「シャーラムの王族ではね?男性から女性に贈る、特別に調香された香の一番の主成分は愛なのよ」
蓋を外すと、サイードがイメージしていたままの香りが漂う。
「美月にぴったりの香りね。ウィリアムから聞いたんだけど、最近殿下は御印を変えられたそうよ。そしてこの瓶の御印の鷹は殿下専用なんですって。鷹が抱える花を纏った三日月はこれまで存在しなかったはずだから、美月の為で間違いないわ」
「…、……」
「鷹と月…二つの御印を一つにした御印が出来る理由はたった一つだけ…殿下が美月を正妻として迎える用意があるって事よ。殿下の公式な御印はこれになるの」
美月の手に瓶を握らせた久流美は、支えて立ち上がらせる。
「ちゃんと聞いて頂きなさい?日本で強引だった殿下が、美月の合意を待っていて下さるのよ?ほら、着替えて。ヘアメイクスタッフも待ってる。仕上げはその香ね」
久流美と入れ代わるように、ヘアメイクスタッフが入室し、美月を仕上げていく。柔らかなクリーム色のドレスは光沢があり、肩紐はなく背中はざっくりと開いたデザインだ。緩やかにアップにされた髪はどこか隙だらけに見え、淡いピンクのルージュが唇をぷっくりさせていた。
「姉ちゃん、遅……姉ちゃん!?」
「何そのリアクション」
「別人が出て来たかと思った」
「残念ね」
「久流美さんからエスコート頼まれてさ。つか…姉ちゃん、香水?」
待ち構えていた陽輝が匂いに気付く。
「さっき母さんからもらってた荷物の?」
「ぁ、うん」
「珍しい匂いだけど…姉ちゃんの事よく知ってる人がくれたのか?よく合ってると思うぞ」
実の弟までもが美月に合うと言う。会場となるホールに向かうと、美月は密かに招待客の注目を集めていた。
「久流美さんから、虫よけに付いてろって言われてんだけど…何でだ?」
「虫よけって…」
「姉ちゃんてダンス出来んのか?」
「正直、自信ない」
「んじゃあテラスから庭に出てようぜ」
陽輝にエスコートされるまま、人気のない庭に出た。すると二人の後ろから声が掛かった。
『ミツキ』
「ちょ…姉ちゃん名指し…てかあれ…確かアラブの王子様なんじゃ…って姉ちゃん!?香水の贈り主ってまさか…」
「ぁ、その…」
『ミツキ、彼は?』
『はじめまして。ヨウキ・クレハラ…ミツキの弟です』
『失礼した…弟君か…サイードだ』
何事もなかったかのようにシェイクハンドしに近付いたサイードが、何かに気付いて美月を見た。
『っ…ミ、ツキ…?』
『殿下、虫よけにいただけですので、姉をお願いしても?』
『任せてくれ』
『では』
「陽輝!」
「親父んとこ行ってる」
離れようとした陽輝を追う態勢だった美月だが、簡単にサイードに捕らえられた。
『さっきはすまない…あんな言い方を…もしあのままでいたら、また…俺は同じ事を繰り返していた』
正装のサイードは凛々しさを増していた。
『…何故、それを付けてくれた?気に入らなかったのだろう?』
『え…?昨日、母から受け取ったばかりだったから…』
『…昨日?』
『実家に届いて…私は別のところに住んでいるから』
サイードは頭を抱えた。
『家が違うのか……ならば何故?それを付けたわけを…』
『久流美から…ちゃんと話をするように言われて…私の事は何も、話していなかったし…』