二重人格三重唱
 翼が勝から聞いた赤穂浪士の話はこうだった。

吉良邸に討ち入った赤穂四十七士。

それとは別の討ち入り隊が中川に組織されていたと言うの話だった。

それは、勝の産まれ育った中川の伝説だった。


集落の地主の元に、赤穂班の江戸詰めの家臣の家で働いていた吉三郎が訪ねて来た。

奉公先で知り合った仲間と暮らす家を探すためだった。


赤穂班の取り潰しで行き場のない人々だと知りながら受け入れてくれた家長。

吉三郎を娘婿にとずっと考えていたからだった。
吉三郎はそれ程信頼のおける人物だったのだ。


山科会議で血判状を残した百二十余名の内、実際に討ち入りに参加したのは五十名にも満たなかった。


【山科〓大石内蔵助がお家取り潰しの後住まいとした地域】

大概の者は義理と打算から名前を連ねただけだった。

お家再興があったら、又雇って貰うためのパフォーマンスだったのだ。

でもその夢が潰えた頃には、多くの者が去って行ったのだった。




その中には、家老である大石内蔵助密命を受けた者もいた。
それが吉三郎の仕えた主人やその仲間だった。


もし仇討ちが失敗に終わった時に、もう一度立ち上がるために隠れて暮らすようにと。


それを忠実に守って活動していたのが、中川の赤穂浪士だったのだ。




赤穂四十七士の内の四十六が切腹した日。
中川の赤穂浪士達も全員が切腹したのだった。

勝は翼に男の美学を語り聞かせていたのだった。




 以下、赤穂浪士概念。

元禄十四年三月十四日。
午前九時。
江戸城の松の廊下は、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかり騒然となった。


「このあいだの遺恨覚えたるか!」
と叫びながら刃傷に及んだと聞きます。


その遺恨がいかなる物なのかは張本人のみ知ること。

一説には、吉良上野介義央に公邸からの勅使の件で悪戯されたとか。
でもこの勅使をもてなすことは既に経験済みだったはずなのだ。

その遺恨がどのようなものかは知りませんが、そのために国元が悲劇に見舞われたことだけは確かのようです。


その上五代将軍綱吉がが喧嘩両成敗にしなかったことが引き金になり、後に盛大な仇討ち事件に発展したのです。




 十一日から十二日にかけて降った雪の残る道。

【舞台などでは演出上、討ち入りの日に雪が降ったとされています】

【南部坂雪の別れもなかったようです】





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