徹底的にクールな男達

 疲れた。本当に疲れた一日だった。

 6時上がりシフトを自ら組んでおいて1時間だけサービス残業して退社した武之内は、およそ11時間ぶりに紫煙を肺に送り込み、駐車場の隅の車内で隠れるように、溜息と煙を同時に吐きだしていた。

 3日ほど前から麻見の一千万の見積書につき合わされ、この上ない心労と頭痛にまで襲われていた。

 結果的に売り上げにならなかった事実から今振り返ってみれば、見積の案自体がそもそも不完全だったのだろうか。

いや、麻見がきちんとした見積書を提出しに来た時は様になっていたので、やはりそこら辺りに欠点はなく、見積もりをする以外に方法はなかったはずだ。

 あの状態なら、見積書を提示しないわけにはいかなかったし、そのためには本社の許可が必要だった。

 しかし、……大きな反省点がある。

それは、柳原から話を聞いていなかった点だ。後藤田のことを客観的に一番よく知っている柳原の判断を仰いでいれば結果は違っていた。

かもしれないと思う。

 ただ、電話をかければ済んだこと。

 なのに、………認めたくはないが、意地になってかけなかった。

 桜田店の店長交代で引き継ぎをした時、麻見の話もした。レジカウンター担当でありながら月何百万も売り上げ、月間売上ランキングに食い込んできていた社員が一体どんな風であるのか、知っておく必要があったからだ。

 麻見のことは必ず聞いておかなければいけないと考えていたが、柳原もそれと同様話しておかなければいけないと思っていたらしく、一番最初にその名前は出てきた。

「麻見のことですが」

 締め切った店長室で、対面して腰かけたはいいが、息苦しさを若干感じたのを覚えている。

 おそらくそれは、あり得ないほどの柳原の、強い釘刺しに気付いていたからだと思う。

「よく見ておいてください。

麻見はふらっとカウンターから出て行ってなんともなかったかのように何百万も売上ていますが、完全に麻見目的の客です。実際、家を貸してやると話を持ちだされたようです」

「家を?」

 前任の店内でも、どのようにして売り上げを上げているのか話題でもちきりだったが、まさか、具体的にそんな事態になっていたとは予想もできなかった。

「本人がわりと乗り気だったのでやめておけと注意したんですが、また何か言ってくるかもしれません」

「そうですね……」

 この時点で俺は麻見の顔くらいしか知らず、話をしたこともなかったのでなんとも言葉が出なかった。

「麻見は売上のことは全く気にしてないので、まあ、そこが救いというか。そこを求め始めると相手の思うツボですからね。

 自分の身を切ってまで売上を上げたいと思ってない麻見がターゲットで、まだ良かったのかもしれません」

「あぁ……」

 なんという自論だと、半ば呆れて聞いた覚えがある。そんな、たかが金持ちの客に贔屓された程度で大げさだと。

「それから麻見は、仕事する気はそこそこあって動きもまあまなですが、基本が抜けているというか、なめているというか。出世欲というのも見えないし。それで、サブリーダーから降格させることにしたんです。今までは正社員の特権で役を与えていたようなものですが、他の準社員をサブリーダーを上げれば、ちょっとは上を目指す気が起こるかなと」

「はい……」

 厳しい割にひいき目だなというのが第一印象だった。

 だけどまあ、あの外見と柳原の若さじゃ仕方ないか、とすぐに頭を切り替える。

 前に勤めていた会社、リバティに居た頃から麻見の顔だけは知っていた。桜田店に思い切り美人の社員がいると。

 こぞって偵察に行き、あえて彼女がカウンターから離れている隙に高い所にある商品を注文して脚を覗き見るような奴もいたと聞いたことがある。

 話が少しずれたが、とにかく、柳原に注意されていたことがそのまま現実となり、しかもその発端になったのは自らの指導不足であり、今はまさに顔も合わせられないような状況だ。

 本社への報告も終わり、このまま、できれば誰も何も知らずに事が沈下していくのを待ちたい……。

 武之内は一通りそこまで考えると、サイドウィンドから煙をもう一度吐きだし、エンジンをかけようとキーを捻ろうとした。

 ところへ、駐車場に歩いて入って来た男女の姿が見える。

 おそらく、1時間ほど前に見た格好と同じだ。

 その時一緒にいた男性も同じ。スーツの男性は従業員通用口の方に歩き、それとは逆に、スーツの女性は。

 こちらに向かって走って来ている。

 煙草を消すのも忘れて、

「どうした!?」

 俺は驚いて、サイドウィンドから乗り出して麻見に話しかけた。

「あの、まだ謝ってなくて……」

 肩で息をする麻見は、それでも息を整えてこちらをじっと見た。

「え、何?」

 見積書の件、まだ謝ってもらっていなかっただろうかと記憶を呼び起こす。

「あの、今日の誤差の件です」

「あぁ……」

 そんなことで? 

 驚きのあまり、灰を落とすのを忘れていた。

「……あぁ」 

 ようやく気付き、車内の灰皿でタバコをもみ消す。

「すみませんでした。それを言いそびれて。でも、ちゃんと伝えたくて、伝えに来ました。すみません、携帯番号知らなくて……」

「あぁ、そう……。教えとこうか」

 そう言う以外にない気がして自らのスマホを取り出した。

「あ、はい。助かります……赤外線でいいですか?」

 言いながら画面が受信状態に切り替わったところで、

「貸して」

 と窓から手を出し、そのスマホを手に取り勝手に情報を交換し合う。

「はい……、麻見さん、家どこ?」

 渡す時に一瞬手が触れた。

「そこです。あそこのアパート」

「あそう。……じゃあ、お疲れ様」

 俺は、一度かけそびれたエンジンをすぐにかけ直すとアクセルを踏んだ。バックミラーで、ハーレーの男性が麻見に話しかけているのがいやに目につく。

 一度店で見たことがある顔だが、おそらく麻見の彼氏だろう。今も自宅でたった一時間何をしていたのかは知らないが、どちらにせよ、自分には何の関係もないことに違いない。
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