徹底的にクールな男達
ややこしくない関係
♦
(11/4)
売り場から一歩バックヤードに入ってドアを閉めただけでBGMが少し小さくなり、更に空気がひんやりして澄んだ外気を吸ったような気分になる。
そしてスタッフルームまでの十数メートルほどの廊下と階段を歩く間に皆、プライベートな自分に返るのだろうと麻見は考える。
本日午後10時半、閉店作業が予想通りの流れで終了したその足どりは軽かった。
祭日の翌日である平日は、忙しいのは午前中の問い合わせ関係だけで、夜は早く清算作業に入ることができる。
昨日一日は休みだったが、なんだか身体がだるいし、今日は早く帰ってゆっくり寝よう。
物静かなそれでいて温かい、鈴木の隣でゆっくり寝よう……。
「メール、見た?」
声をかけられるまで、全くその存在に気付かなかった。
制服である黒のスーツ以外の人物がこの廊下を歩くことはあまりない。あるとすれば、忘れ物を取りに来た従業員か、事務作業が大幅に遅れている管理職者か、のいづれかで。
もちろん前者に違いない福原は、スタッフルームの入口で壁に背をつき、スマホをいじる手を止めて顔を上げたのであった。
「…………」
昨日福原から送られていたメールは今朝になって読んだ。
『今日、夜食事しよう』
読んだから返信しなかったのだ。
「…………」
しかし、言葉に詰まって立ち止まっていると、背後から
「お疲れ……」
声をかけながらも、立ち止まった麻見とそれを見下すように立つ福原を不思議に見返りながらスタッフルームへ入る終業した者が数名横切る。
「先、荷物取って来ます」
麻見はそれだけ言うと足を動かせ、それと同時に胸ポケットにしのばせているスマホを取り出した。
女子更衣室に入り、鈴木にかける。
「もしもし」
予定通り駐車場の端で麻見を待っているであろう鈴木はすぐに電話に出た。
「悪い。まだ事務所だ。ちょっと遅れる」
「あそう……どのくらい?」
「もうちょいしてから出るから……。タクシーで帰るか?」
最悪のタイミングだ。
「いや、……うん。そうする。今日は家帰って来るの?」
「しばらくしたら帰る」
「うん……分かった」
あまりだらだら話をすると、相手の迷惑になる。
そう思って電話を切ったものの、どう福原の前に出ていけばよいのか迷い、なかなか、準備が進まない。要は、スーツの上着やリボンを取り、持って来ているパーカーを羽織るだけなのだが。
とにかく、一番重要なのは、こちらが福原のことを好いているという勘違いを取り払らわねばならないということだ。
福原の中でもう付き合っている手にされたのならば、なんと言えばよいのか。身体だけの一夜限りの関係でした、などと言い切ればいいのか。それを言ったことによって周囲のよくない噂にはつながらないのか……考えれば考えるほど泥沼に入り込んでいく。
だが今更、良い案なんてないのかもしれない。
麻見はもう一度深く溜息をつくと顔を上げ、ようやく足を進ませてスタッフルームの扉を開いた。
が、そこにはいない。
既に従業員通用口に向かって待ち伏せしているのかもしれない。
そこまで考えて、ハッと気付く。
そういう時に限っているのが、武之内店長だ。しかも今日は早上がりのくせにまだ残業をしているし、11月から異動してきた妙に軽々しい副店長もいるし。最悪だ……。
思いついて、先に店長室を確認。こんな時に限って誰もいない。まだ売り場の作業をしていると思うが、まさか従業員通用口には用がないと信じたい。
廊下を進み、階段を下りて、角を曲がる。
「…………」
何でそんなところで談笑してるんですか……。
本日公休の私服の福原部門長と、4日前に異動してきたばかりの副店長が。
「おっ、彼女が来た来た」
「えッ!?」
まさか、何で!? まだ挨拶程度しか交わしていない副店長、三笠(みかさ)が何を軽々と冗談を飛ばしているのだ!?
しかも福原は普通に笑っている。
「……彼女じゃありません」
麻見は無表情を装って言ったが、顔が引きつっていることは充分承知だった。
「身体預けてくれたんだから、彼女っしょ」
福原の口から出た信じられないセリフに、はあ!? と、思わず声が出そうになる。
しかし反論する間もなく、肩に長い腕をまわされ、ぐいと顔と顔が近寄った。
咄嗟に三笠の反応が気になって、よけるより先にそちらを見る。
三笠は若干苦い顔をしながらも、それでも適当に笑っていた。
こげ茶肌で長身細身の、少しチャラ男なイケメン顔で。年はおそらく福原よりも少し上、40手前であろういい大人が半分どうでもよさそうに笑っていた。
「違いますから!! 違いますから!!」
三笠がどんな人かは知らないが、否定するだけでもしておかなければいけない!
「昨日は夜と朝したじゃん」
固まった麻見は、福原を睨んだ。
その視線を受けても、ものともしない彼は、どんなもんだと口元に笑みを浮かせて見下してくる。
「…………最低」
怒りが頂点に達した麻見は視線を伏せて放った。
「怒ってる、怒ってる」
それでも動揺しないからかい声の三笠と、福原はこちらの意思に構うことはなかった。
「手出しさせないよ、三笠サン」
冗談はそこまでにしてほしい。
福原は、再び身体をぐいと引き寄せてきたが、今度はすぐに腕から離れて突っぱねた。
「やめてください!!」
廊下に、自分の声が驚くほど響いた。
場が、凍りついた気がした。
もしかしたら、この状況を誰かに見られたとしたら、セクハラと間違われて労働組合に通報されて自体は大きくなり……。
「何? どうしたの?」
聞き慣れた、最悪の声の主がいる階段の方へ、麻見は顔を上げることができなかった。
「いやあ、あの……」
三笠は事態を収拾させようと、こちらに近づいてくる声の主、武之内に歩み寄りながら続ける。
「ただの痴話喧嘩です」
そこで。堂々と当然のように言い張る福原に腹が立ったが、武之内の前では胸の内を押し殺すしかない。
「いやまあ、そうなんです」
三笠が笑いながらそう言ってしまうのも仕方ない。だって、福原がそういう風に最初から説明してるんだから。
「すみません、大声出して」
隣で素早く福原が、頭を下げた。
何この、『俺の女が』みたいな……我が者顔して、武之内の前で!!
あまりに腹が立った麻見はついに口を開いた。
「ちょっと……そうやるとみんなが勘違いするから……」
なのに、武之内はくるりと方向を変え、廊下の反対側に進んで行ってしまう。
また、通用口の前で揉めてると思われた!!
「武之内店長!!」
他のことなどどうでもいい!
麻見はその、見慣れた後姿に声をかぶせ、引き留めた。
「違うんです! 通用口の前でまたなんかこんなことになってますけど、私は全然!」
「うん」
その、こちらの顔をしっかりと見ながらも、全く興味がないのが熱で伝わった。
「……すみません……、呼びとめて、すみませんでした」
「…………」
何も言うことなく、そのまま進んで行ってしまう後姿は、やはりいつも通り無関心で。
パタンとその先のドアに入ってしまった後も、足を動かせずにただ立ち尽くした。
「……なんか言いたいことあったんじゃないの? 」
三笠が優しく話しかけてくれる。
「…………」
その時、初めて自分が泣いていることに気付いた。
「いいんです。私、デキない子ですから。何言ったって、聞いてもらえないんです」
「んなことねー……」
「半分は福原さんのせいですけど」
近寄って来た福原に本心をぶつけた。
「まあ、続きは帰ってからにしよう」
仕方なく仲裁役に入っている三笠が帰りたがっているのが声で分かる。
麻見は、それでも今言うべきだと、福原の方を向いて、その胸元を見てしっかりと言い切った。
「私は福原さんのことが好きでもなんともないからなんかそういう態度とられると嫌なんです。やめて下さい」
これで大丈夫だ。これで、どうにかなるはずだと言い切ったのに。
充血した目の前に突然現れた顔は、とても近くて。昨日の朝のことのように、吐息が感じられるほどで。
「目ぇ見て言えねェことなら、最初からゆーな」
「…………」
いやっ……そういうわけじゃ……。
「じゃあまあ今日は機嫌悪ぃみたいだから帰るわ。どうせ迎えあんだろ?」
「あります」
引きつる顔で麻見は即答した。
「じゃあ、また明日な」
そのまま、いとも簡単に福原は従業員通用口から出て行ってしまう。
残された三笠も、素早く階段を登りはじめた。
まだ時間に余裕がある麻見は、ここぞとばかりに
「三笠副店長、福原部門長と仲いいんですか?」
と、聞く。
「うーん、まあまあ」
その、なんとも正直で微妙な応答に、三笠も信用できない気がしたが。
「何? なんか悩んでんの?」
社交辞令かもしれないが、聞いてくれる。
「いやあの、そうです……」
目を見て言った。
相手も、それにきちんと答えてくれる。
「あー……。じゃー……、飯行くか! 今日早いし。ちょっと待て。上着取ってくるから」
(11/4)
売り場から一歩バックヤードに入ってドアを閉めただけでBGMが少し小さくなり、更に空気がひんやりして澄んだ外気を吸ったような気分になる。
そしてスタッフルームまでの十数メートルほどの廊下と階段を歩く間に皆、プライベートな自分に返るのだろうと麻見は考える。
本日午後10時半、閉店作業が予想通りの流れで終了したその足どりは軽かった。
祭日の翌日である平日は、忙しいのは午前中の問い合わせ関係だけで、夜は早く清算作業に入ることができる。
昨日一日は休みだったが、なんだか身体がだるいし、今日は早く帰ってゆっくり寝よう。
物静かなそれでいて温かい、鈴木の隣でゆっくり寝よう……。
「メール、見た?」
声をかけられるまで、全くその存在に気付かなかった。
制服である黒のスーツ以外の人物がこの廊下を歩くことはあまりない。あるとすれば、忘れ物を取りに来た従業員か、事務作業が大幅に遅れている管理職者か、のいづれかで。
もちろん前者に違いない福原は、スタッフルームの入口で壁に背をつき、スマホをいじる手を止めて顔を上げたのであった。
「…………」
昨日福原から送られていたメールは今朝になって読んだ。
『今日、夜食事しよう』
読んだから返信しなかったのだ。
「…………」
しかし、言葉に詰まって立ち止まっていると、背後から
「お疲れ……」
声をかけながらも、立ち止まった麻見とそれを見下すように立つ福原を不思議に見返りながらスタッフルームへ入る終業した者が数名横切る。
「先、荷物取って来ます」
麻見はそれだけ言うと足を動かせ、それと同時に胸ポケットにしのばせているスマホを取り出した。
女子更衣室に入り、鈴木にかける。
「もしもし」
予定通り駐車場の端で麻見を待っているであろう鈴木はすぐに電話に出た。
「悪い。まだ事務所だ。ちょっと遅れる」
「あそう……どのくらい?」
「もうちょいしてから出るから……。タクシーで帰るか?」
最悪のタイミングだ。
「いや、……うん。そうする。今日は家帰って来るの?」
「しばらくしたら帰る」
「うん……分かった」
あまりだらだら話をすると、相手の迷惑になる。
そう思って電話を切ったものの、どう福原の前に出ていけばよいのか迷い、なかなか、準備が進まない。要は、スーツの上着やリボンを取り、持って来ているパーカーを羽織るだけなのだが。
とにかく、一番重要なのは、こちらが福原のことを好いているという勘違いを取り払らわねばならないということだ。
福原の中でもう付き合っている手にされたのならば、なんと言えばよいのか。身体だけの一夜限りの関係でした、などと言い切ればいいのか。それを言ったことによって周囲のよくない噂にはつながらないのか……考えれば考えるほど泥沼に入り込んでいく。
だが今更、良い案なんてないのかもしれない。
麻見はもう一度深く溜息をつくと顔を上げ、ようやく足を進ませてスタッフルームの扉を開いた。
が、そこにはいない。
既に従業員通用口に向かって待ち伏せしているのかもしれない。
そこまで考えて、ハッと気付く。
そういう時に限っているのが、武之内店長だ。しかも今日は早上がりのくせにまだ残業をしているし、11月から異動してきた妙に軽々しい副店長もいるし。最悪だ……。
思いついて、先に店長室を確認。こんな時に限って誰もいない。まだ売り場の作業をしていると思うが、まさか従業員通用口には用がないと信じたい。
廊下を進み、階段を下りて、角を曲がる。
「…………」
何でそんなところで談笑してるんですか……。
本日公休の私服の福原部門長と、4日前に異動してきたばかりの副店長が。
「おっ、彼女が来た来た」
「えッ!?」
まさか、何で!? まだ挨拶程度しか交わしていない副店長、三笠(みかさ)が何を軽々と冗談を飛ばしているのだ!?
しかも福原は普通に笑っている。
「……彼女じゃありません」
麻見は無表情を装って言ったが、顔が引きつっていることは充分承知だった。
「身体預けてくれたんだから、彼女っしょ」
福原の口から出た信じられないセリフに、はあ!? と、思わず声が出そうになる。
しかし反論する間もなく、肩に長い腕をまわされ、ぐいと顔と顔が近寄った。
咄嗟に三笠の反応が気になって、よけるより先にそちらを見る。
三笠は若干苦い顔をしながらも、それでも適当に笑っていた。
こげ茶肌で長身細身の、少しチャラ男なイケメン顔で。年はおそらく福原よりも少し上、40手前であろういい大人が半分どうでもよさそうに笑っていた。
「違いますから!! 違いますから!!」
三笠がどんな人かは知らないが、否定するだけでもしておかなければいけない!
「昨日は夜と朝したじゃん」
固まった麻見は、福原を睨んだ。
その視線を受けても、ものともしない彼は、どんなもんだと口元に笑みを浮かせて見下してくる。
「…………最低」
怒りが頂点に達した麻見は視線を伏せて放った。
「怒ってる、怒ってる」
それでも動揺しないからかい声の三笠と、福原はこちらの意思に構うことはなかった。
「手出しさせないよ、三笠サン」
冗談はそこまでにしてほしい。
福原は、再び身体をぐいと引き寄せてきたが、今度はすぐに腕から離れて突っぱねた。
「やめてください!!」
廊下に、自分の声が驚くほど響いた。
場が、凍りついた気がした。
もしかしたら、この状況を誰かに見られたとしたら、セクハラと間違われて労働組合に通報されて自体は大きくなり……。
「何? どうしたの?」
聞き慣れた、最悪の声の主がいる階段の方へ、麻見は顔を上げることができなかった。
「いやあ、あの……」
三笠は事態を収拾させようと、こちらに近づいてくる声の主、武之内に歩み寄りながら続ける。
「ただの痴話喧嘩です」
そこで。堂々と当然のように言い張る福原に腹が立ったが、武之内の前では胸の内を押し殺すしかない。
「いやまあ、そうなんです」
三笠が笑いながらそう言ってしまうのも仕方ない。だって、福原がそういう風に最初から説明してるんだから。
「すみません、大声出して」
隣で素早く福原が、頭を下げた。
何この、『俺の女が』みたいな……我が者顔して、武之内の前で!!
あまりに腹が立った麻見はついに口を開いた。
「ちょっと……そうやるとみんなが勘違いするから……」
なのに、武之内はくるりと方向を変え、廊下の反対側に進んで行ってしまう。
また、通用口の前で揉めてると思われた!!
「武之内店長!!」
他のことなどどうでもいい!
麻見はその、見慣れた後姿に声をかぶせ、引き留めた。
「違うんです! 通用口の前でまたなんかこんなことになってますけど、私は全然!」
「うん」
その、こちらの顔をしっかりと見ながらも、全く興味がないのが熱で伝わった。
「……すみません……、呼びとめて、すみませんでした」
「…………」
何も言うことなく、そのまま進んで行ってしまう後姿は、やはりいつも通り無関心で。
パタンとその先のドアに入ってしまった後も、足を動かせずにただ立ち尽くした。
「……なんか言いたいことあったんじゃないの? 」
三笠が優しく話しかけてくれる。
「…………」
その時、初めて自分が泣いていることに気付いた。
「いいんです。私、デキない子ですから。何言ったって、聞いてもらえないんです」
「んなことねー……」
「半分は福原さんのせいですけど」
近寄って来た福原に本心をぶつけた。
「まあ、続きは帰ってからにしよう」
仕方なく仲裁役に入っている三笠が帰りたがっているのが声で分かる。
麻見は、それでも今言うべきだと、福原の方を向いて、その胸元を見てしっかりと言い切った。
「私は福原さんのことが好きでもなんともないからなんかそういう態度とられると嫌なんです。やめて下さい」
これで大丈夫だ。これで、どうにかなるはずだと言い切ったのに。
充血した目の前に突然現れた顔は、とても近くて。昨日の朝のことのように、吐息が感じられるほどで。
「目ぇ見て言えねェことなら、最初からゆーな」
「…………」
いやっ……そういうわけじゃ……。
「じゃあまあ今日は機嫌悪ぃみたいだから帰るわ。どうせ迎えあんだろ?」
「あります」
引きつる顔で麻見は即答した。
「じゃあ、また明日な」
そのまま、いとも簡単に福原は従業員通用口から出て行ってしまう。
残された三笠も、素早く階段を登りはじめた。
まだ時間に余裕がある麻見は、ここぞとばかりに
「三笠副店長、福原部門長と仲いいんですか?」
と、聞く。
「うーん、まあまあ」
その、なんとも正直で微妙な応答に、三笠も信用できない気がしたが。
「何? なんか悩んでんの?」
社交辞令かもしれないが、聞いてくれる。
「いやあの、そうです……」
目を見て言った。
相手も、それにきちんと答えてくれる。
「あー……。じゃー……、飯行くか! 今日早いし。ちょっと待て。上着取ってくるから」