徹底的にクールな男達
12月
クリスマス
♦(12/24)
その日の朝は異様だった。会社の女子更衣室は、手鏡を見ながらメイクの最終チェックをする者で溢れ、みな一様に浮足立っていた。
まあ、12月24日なのだから仕方ない。朝のうちからメイクをしっかりしておかないと終業後のデートに響くのだろう。
そう考えて、特に予定のない麻見は鏡など見ることもなく、持ち場のカウンターに付く。
今日は定時に上がって風呂に入り、鈴木と一緒に完酎ハイとクリスマスケーキを食べるだけだから、今日の仕事には何も関係がないのだ。
「見ました? 依子さん」
すぐ側でレジ袋を補充している真里菜が何を聞いているのか分からなくて、
「何を?」。
現金の点検作業をしながら、手を休めずに聞いた。
「天神(てんじん)さん、今日来てるんですよ。携帯コーナーの香久山(かぐやま)さんなんか香水ばんばんふっちゃって」
真里菜は笑いながらも平たい目を携帯電話のコーナーに向けたと同時に、2人の作業の手は止まった。
「天神さんってあの、本社の? 営業部の?」
「営業推進部のです。私もさっきちらっと見たんですけど、めちゃカッコいい!!」
「私見たことないんだよねー。すごいカッコいいらしいけど」
「ほんとモデルですよ!! 肌が違う! つるつるつやつや! 髪もサラサラ! 背めっちゃ高いし、肩幅広いしぃ、細いし、いい匂いするし」
普段あまり男性の外見になびかない真里菜の顔が、いつになく紅潮している。
「…………、見てこよっか?」
「今店長室ですからね。どんな理由で見に行きます?」
「うーん……」
一瞬考えたが、思いつかなくて一旦作業を再開する。
「後で見れるよね。……でもすぐ帰るかな?」
「先見といた方がいんじゃないですか? ちらっと店見て帰るだけならもう見れないかも」
にしても、本日出勤の店長武之内がいる店長室に何の用事もなくしかもこの朝の忙しい準備の時間帯に行くことははばかられる。
「うーん……」
再び唸ってはみたが案が思い浮かばなかったその直後。
耳のイヤホンから入って来た聞き慣れた声は、
『麻見さん、麻見さん、店長室まで。すぐ来れる?』
まるで、サンタからのクリスマスプレゼントのようで。
「なにこれ、すごいタイミングゥ!!」
隣の真里菜もはしゃいで目をぱちくりさせた。
「はい、麻見すぐに行きます」
マイクにそう返事をした麻見は、作業のことなどすっかり忘れて真里菜に無言で押し付け、背中で揺れる髪の毛が乱れないように、それでも小走りで店長室へ向かった。
みなが一様にメイクのチェックをしていたのは、このためだったのか。その意味が今ようやく分かったと小さく頷きながら。
「ちょっと座って」
その店長室は空気が張りつめていた。
それが、部屋の奥に背を向け、正面を向いてパイプ椅子に腰かけている武之内の表情や声からだけでなく、左手に同様に腰かけている初対面の天神からも伝わってくる。
確かに今しがた真里菜が称した通りの良い男だと思った。だけど今は、そんな事に浮かれている場合ではなかった。
何故今走りながら、武之内に呼ばれた理由を先回りして考えられなかったのだろう。
座りながら、そんなことを後悔する。
「これ、僕は確認してないよ」
長机の上にぴらっと出されたのは一枚のコピー用紙。
タイトルは見積書。
そのすぐ右下に担当 麻見 依子と書かれている。
まじまじと見て確認した。
宛名は 後藤田 龍一 様 内容は、8Kテレビ、100台を……。
「えっ、これ……」
前回武之内に出してもらった金額からおよそ、5割も引いた金額が合計金額になっている。
商品の値段自体は、確かまだ下がっていない。いや、下がっていたとしても、ここまで急落するはずがない。
「昨日、後藤田さんの秘書の方から店に連絡があったようだ。麻見が出した見積書の件で今日、本人から折り返しの電話が欲しいと」
会社から支給されている携帯電話がつながらない時は店にかけてくることもあったが、それが、まさか……。
「全く知りません……」
そうなのだから仕方ない。
「日付が入ってない」
武之内に言われて見ると、確かに日付がどこにも入っていない。
「…………え?」
あまりにもみんなが無言なので、心配になって用紙から顔を上げた。
2人とも、こちらを注視している。
「し、知りません。私の名前が入ってますけど、でも私……後藤田さんとはあれから何の連絡も取ってないし、昨日は休みです」
「昨日届けられた見積り?」
何を引っかけるつもりなんだと、麻見は眉間に皴を寄せて、
「いつかは知りませんけど……昨日連絡があったということは、昨日届けられたんじゃないんですか?」
「いつ、どのように届けられたのかも分からない。昨日出社の人が秘書の人からの電話を受けて、ただ、僕がたまたまその話を聞いて。パソコンの見積もりファイルを見たらそのデータがあったんだ」
「ウソ!?」
そんな馬鹿な、そんな見積り、そんな値段!!
「……パソコン、確認してもいいですか?」
「……どうぞ」
武之内は椅子を引いて、壁に並んでいる1台のノートパソコンに向かうと、すぐにスリープモードからパスワードを入力し、画面を切り替えた。
麻見はそのすぐ隣に立ち、武之内に顔を寄せるように画面の文字を見つめる。
そこには、確かに用紙と同じデータがあった。
「…………、私が前回作った見積は、宛名が会社名です。値段も、武之内店長から言われた通り、10%引いて、端数を落としただけです」
「そのデータはないけど」
「……それは……消しました。もういらないと思ったので。すでにお渡しして、キャンセルになったいらないデータだったので、消去しました」
「うん、まあ、要らないデータは即消去するのが望ましいからそれはいいけど。ということは、この本人名義になっているデータは麻見さんが作成した物ではない?」
「違います。私なら、こんなに安くしません」
それが何よりの証拠だと武之内の目を見て言った。
「それ、理由になるの?」
ここでひるんで犯人扱いされるのだけは嫌だ。
「後藤田さんは私から買えればどんな値段でも構わないんです」
2秒ほど、目が合い……武之内はさっと視線を逸らした。
「誰かのイタズラにしては、手が込み過ぎてるし、今後同じことが何度もあった時に対応ができなくなる」
天神は初めて口を開くと、武之内を見つめて続けた。
「それより、この見積書が間違いだったことをお詫びしに行かなければならない」
「私が行きます」
これなら高級ホテルでの食事で済むはずだと確信して名乗りを上げた。
「麻見はもう関わらなくていい」
初めて呼び捨てにされて、以前きつく弾かれたことを即思い出す。
「私がお詫びに行きます」
武之内は天神の目を見て言い切った。
「秘書の方の電話番号だけ教えてくれ」
次いで、冷たい口調で目も合わせず言い放ったのは、もちろん麻見に向けての言葉で。
「…………、…………はい」
仕方なく返事をする。
「麻見さん」
天神に呼ばれ、どんな顔をして良いのか迷いながら顔を上げた。
「いやがらせされるような覚えはない?」
いやがらせ、という言葉がピンとこず、
「いやがらせ……」
ただ復唱して黙ってしまう。
「悪質ないやがらせだよね、明らかに。これからも同じようなことがあるようじゃ困るよ、みんなが。身の振り方に気を付けるように」
「…………」
その、顎を引き、二重のしっかりとした瞳でギラリとこちらを見る眼差しは場違いにも整い過ぎた表情で。
「……はい」
それが故、その冷徹さしか伝わってこない。
「麻見、持ち場に戻って」
聞き慣れた声も、やはり冷ややかで。邪鬼にされているのがただ伝わった。
武之内の無表情からは、以前吐かれた言葉がありありと読み取れる。
『頼むから、常識の範囲内で仕事をしてくれ。それ以上求めないよ、お前には』
麻見は黙って店長室を出た。悲しさも、憎しみも、今の心からは何も生まれなかった。ただたまたま窓の外から見えた町のクリスマス景色があまりにも温かすぎて。
やめたいと思った。
武之内が責任者を務めるこの職場から、逃げたいと。
ただ、思った。
その日の朝は異様だった。会社の女子更衣室は、手鏡を見ながらメイクの最終チェックをする者で溢れ、みな一様に浮足立っていた。
まあ、12月24日なのだから仕方ない。朝のうちからメイクをしっかりしておかないと終業後のデートに響くのだろう。
そう考えて、特に予定のない麻見は鏡など見ることもなく、持ち場のカウンターに付く。
今日は定時に上がって風呂に入り、鈴木と一緒に完酎ハイとクリスマスケーキを食べるだけだから、今日の仕事には何も関係がないのだ。
「見ました? 依子さん」
すぐ側でレジ袋を補充している真里菜が何を聞いているのか分からなくて、
「何を?」。
現金の点検作業をしながら、手を休めずに聞いた。
「天神(てんじん)さん、今日来てるんですよ。携帯コーナーの香久山(かぐやま)さんなんか香水ばんばんふっちゃって」
真里菜は笑いながらも平たい目を携帯電話のコーナーに向けたと同時に、2人の作業の手は止まった。
「天神さんってあの、本社の? 営業部の?」
「営業推進部のです。私もさっきちらっと見たんですけど、めちゃカッコいい!!」
「私見たことないんだよねー。すごいカッコいいらしいけど」
「ほんとモデルですよ!! 肌が違う! つるつるつやつや! 髪もサラサラ! 背めっちゃ高いし、肩幅広いしぃ、細いし、いい匂いするし」
普段あまり男性の外見になびかない真里菜の顔が、いつになく紅潮している。
「…………、見てこよっか?」
「今店長室ですからね。どんな理由で見に行きます?」
「うーん……」
一瞬考えたが、思いつかなくて一旦作業を再開する。
「後で見れるよね。……でもすぐ帰るかな?」
「先見といた方がいんじゃないですか? ちらっと店見て帰るだけならもう見れないかも」
にしても、本日出勤の店長武之内がいる店長室に何の用事もなくしかもこの朝の忙しい準備の時間帯に行くことははばかられる。
「うーん……」
再び唸ってはみたが案が思い浮かばなかったその直後。
耳のイヤホンから入って来た聞き慣れた声は、
『麻見さん、麻見さん、店長室まで。すぐ来れる?』
まるで、サンタからのクリスマスプレゼントのようで。
「なにこれ、すごいタイミングゥ!!」
隣の真里菜もはしゃいで目をぱちくりさせた。
「はい、麻見すぐに行きます」
マイクにそう返事をした麻見は、作業のことなどすっかり忘れて真里菜に無言で押し付け、背中で揺れる髪の毛が乱れないように、それでも小走りで店長室へ向かった。
みなが一様にメイクのチェックをしていたのは、このためだったのか。その意味が今ようやく分かったと小さく頷きながら。
「ちょっと座って」
その店長室は空気が張りつめていた。
それが、部屋の奥に背を向け、正面を向いてパイプ椅子に腰かけている武之内の表情や声からだけでなく、左手に同様に腰かけている初対面の天神からも伝わってくる。
確かに今しがた真里菜が称した通りの良い男だと思った。だけど今は、そんな事に浮かれている場合ではなかった。
何故今走りながら、武之内に呼ばれた理由を先回りして考えられなかったのだろう。
座りながら、そんなことを後悔する。
「これ、僕は確認してないよ」
長机の上にぴらっと出されたのは一枚のコピー用紙。
タイトルは見積書。
そのすぐ右下に担当 麻見 依子と書かれている。
まじまじと見て確認した。
宛名は 後藤田 龍一 様 内容は、8Kテレビ、100台を……。
「えっ、これ……」
前回武之内に出してもらった金額からおよそ、5割も引いた金額が合計金額になっている。
商品の値段自体は、確かまだ下がっていない。いや、下がっていたとしても、ここまで急落するはずがない。
「昨日、後藤田さんの秘書の方から店に連絡があったようだ。麻見が出した見積書の件で今日、本人から折り返しの電話が欲しいと」
会社から支給されている携帯電話がつながらない時は店にかけてくることもあったが、それが、まさか……。
「全く知りません……」
そうなのだから仕方ない。
「日付が入ってない」
武之内に言われて見ると、確かに日付がどこにも入っていない。
「…………え?」
あまりにもみんなが無言なので、心配になって用紙から顔を上げた。
2人とも、こちらを注視している。
「し、知りません。私の名前が入ってますけど、でも私……後藤田さんとはあれから何の連絡も取ってないし、昨日は休みです」
「昨日届けられた見積り?」
何を引っかけるつもりなんだと、麻見は眉間に皴を寄せて、
「いつかは知りませんけど……昨日連絡があったということは、昨日届けられたんじゃないんですか?」
「いつ、どのように届けられたのかも分からない。昨日出社の人が秘書の人からの電話を受けて、ただ、僕がたまたまその話を聞いて。パソコンの見積もりファイルを見たらそのデータがあったんだ」
「ウソ!?」
そんな馬鹿な、そんな見積り、そんな値段!!
「……パソコン、確認してもいいですか?」
「……どうぞ」
武之内は椅子を引いて、壁に並んでいる1台のノートパソコンに向かうと、すぐにスリープモードからパスワードを入力し、画面を切り替えた。
麻見はそのすぐ隣に立ち、武之内に顔を寄せるように画面の文字を見つめる。
そこには、確かに用紙と同じデータがあった。
「…………、私が前回作った見積は、宛名が会社名です。値段も、武之内店長から言われた通り、10%引いて、端数を落としただけです」
「そのデータはないけど」
「……それは……消しました。もういらないと思ったので。すでにお渡しして、キャンセルになったいらないデータだったので、消去しました」
「うん、まあ、要らないデータは即消去するのが望ましいからそれはいいけど。ということは、この本人名義になっているデータは麻見さんが作成した物ではない?」
「違います。私なら、こんなに安くしません」
それが何よりの証拠だと武之内の目を見て言った。
「それ、理由になるの?」
ここでひるんで犯人扱いされるのだけは嫌だ。
「後藤田さんは私から買えればどんな値段でも構わないんです」
2秒ほど、目が合い……武之内はさっと視線を逸らした。
「誰かのイタズラにしては、手が込み過ぎてるし、今後同じことが何度もあった時に対応ができなくなる」
天神は初めて口を開くと、武之内を見つめて続けた。
「それより、この見積書が間違いだったことをお詫びしに行かなければならない」
「私が行きます」
これなら高級ホテルでの食事で済むはずだと確信して名乗りを上げた。
「麻見はもう関わらなくていい」
初めて呼び捨てにされて、以前きつく弾かれたことを即思い出す。
「私がお詫びに行きます」
武之内は天神の目を見て言い切った。
「秘書の方の電話番号だけ教えてくれ」
次いで、冷たい口調で目も合わせず言い放ったのは、もちろん麻見に向けての言葉で。
「…………、…………はい」
仕方なく返事をする。
「麻見さん」
天神に呼ばれ、どんな顔をして良いのか迷いながら顔を上げた。
「いやがらせされるような覚えはない?」
いやがらせ、という言葉がピンとこず、
「いやがらせ……」
ただ復唱して黙ってしまう。
「悪質ないやがらせだよね、明らかに。これからも同じようなことがあるようじゃ困るよ、みんなが。身の振り方に気を付けるように」
「…………」
その、顎を引き、二重のしっかりとした瞳でギラリとこちらを見る眼差しは場違いにも整い過ぎた表情で。
「……はい」
それが故、その冷徹さしか伝わってこない。
「麻見、持ち場に戻って」
聞き慣れた声も、やはり冷ややかで。邪鬼にされているのがただ伝わった。
武之内の無表情からは、以前吐かれた言葉がありありと読み取れる。
『頼むから、常識の範囲内で仕事をしてくれ。それ以上求めないよ、お前には』
麻見は黙って店長室を出た。悲しさも、憎しみも、今の心からは何も生まれなかった。ただたまたま窓の外から見えた町のクリスマス景色があまりにも温かすぎて。
やめたいと思った。
武之内が責任者を務めるこの職場から、逃げたいと。
ただ、思った。