徹底的にクールな男達
レスエスト
♦
(2/15)
2月14日の日曜日は売り場が忙しく、武之内が休憩時間をあまりとらなかったためだと思われる。
15日の月曜日にバレンタインのチョコを渡している子が何人かいるのは。
午後6時、売り場が落ち着き店長室で事務仕事をしていた本人を取り囲み、数人の女性はわいわい騒いでいた。
それを横目にスタッフルームを目指していた麻見の隣で、沙衣吏は淡々と言った。
「あぁいう賄賂は渡しといた方がいいのよ。持って来てないの? 今からコンビニで買えば間に合うよ。半額だし」
「…………」
そんなこと、言われても、言われなくてもする気には到底なれない。
「沙衣吏は?」
返事に困ってとりあえず聞く。おそらく彼氏にしかあげないに決まっているだろうけど。
「渡したよ。早めに。というか、誰が店長でも毎年渡してる」
「そうだったんだ!!」
凛とした表情で廊下の先のスタッフルームを見つめた沙衣吏は、当然とでも言いたげだった。ついでに、義理でそこには何の感情もない、と。
でもそれが、その出世に繋がっているのかもしれない。店長も男だし、義理でも貰えれば心が揺らぐはずだ。
しかしいや、沙衣吏は元々実力があるからそんなことは関係ない、か……。
「苦手でしょ? 武之内店長のこと」
「うん。渡せないよ。渡しにくい。渡す時が嫌だ」
「ロッカーに入れとけばいいよ」
「そんなの無理無理。いい、別に。嫌われてても次の店長に賭けるから」
「何年先になるかも分からないのに……」
優しい声で苦笑されたが、来月からは高岡部長の元で働く予定になっている。人事部からの内示もまだ出ていない状態で情報を漏らすことはできないので黙っているが、もうこの店ともおさらばだ。
入社以来2年間、歩き続けた廊下ともさよならだ。泣いたことはあまりないが、笑いながら通ったこの廊下、冗談を言い合い誤差を出しまくったレジ、ワケの分からないいたずら電話をとって皆で悩んだカウンター、失くしたこともあったけど、ほぼそんなこともなく毎日使い続けたファイル、時々かけたモップ。全部が全部、これからは他店として扱うようになり、自分は本社へ向かうのだ。
高岡部長の元がどういう所かは知っている。
店舗のはみ出し者を部長の力で改善し集わせる十数名の部署だ。
もちろんそこで出社して役職をもらった人もいるし。本社の役員に自分をアピールすることもできる。絶対にこれはチャンスだ。今まで出世というものに縁がなかった自分だが、ようやく一歩踏み出せる。
最初は辛いかもしれないが、一段階だけ上がれば、はみ出し者を束ねる側にまわれる。
肩書は本社になるし、実は穴場なのかもしれない。
「あそうだ。先月くらいの話なんだけど」
夕方を過ぎても崩れないその横顔を見た。それほど重要な話ではなさそうだ。
「私の知り合いがねー。レスエストだったみたいで、すごく悩んでてね」
「へー……」
身近な知り合いの話などあまりしない沙衣吏が珍しいなと思いながら、しかしレスエストという病気には少し興味があったので聞いた。
「あれだよね? 会社の健康検査で分かるんだよね? 欄があったよね?」
「うんある。それでひっかかったんだって。でその子が行ってる所は個人経営の会社で、その情報をみんなに知られちゃって。よってたかっての状態」
「え゛!? あれだよね? なんか女性ホルモンが少なすぎて体調崩しやすくなるから、あのー時めいて、ドキドキして、エッチとかしなきゃいけないんだよね? そういう病気のやつだよね??」
「うん、一回したからってなかなか改善しないとは言ってたけど。まあ要は本人は病気治したいし、男はしたいし。それがうまくいってるというか。
元は結構引っ込み思案な子なんだけど、最近は派手だよー。そういう意味で会社でモテまくってるからね」
「…………、どうなの、それ?」
麻見は顔を歪ませたままで聞いたが、沙衣吏はしれっと
「いんじゃない? 」。
「……い、いいの、それ?」
沙衣吏らしいといえば沙衣吏らしい答え方だが、よってたかって状態の妄想がどんどん膨らんでしまい、とても良いとは思えない。
「愛はあとからついてくるかもしれないし。モテ期ってことよ。要は」
「ま、確かにモテ期だけれども……。とっかえひっかえ? 大丈夫なのそれ?」
「身体には良いらしいよ。髪の毛とか肌もつやつやになって、眩暈がなくなったって」
「へー……」
普段全くそんな話をしない沙衣吏がどうしたことかと心配になった。まさか、この前の検査で陽性だったんだろうか。
でもまだ、検査結果出てないしな……。
それに彼氏いて時めいてるし、エッチもしてるだろうから病気にはならないだろうしな……。
「知ってた? あれって、そういう相手が見つからない時のために、病院も風俗みたいなの紹介してるらしいよ?」
どうしよう。なんかすごく詳しい。
彼氏ってもしかして嘘だったんだろうか。それともあんまり仲良くないんだろうか。
「……し、知らない知らない。だってあれってまあ、レアケースなんじゃない?」
「でもうちの会社もいるって言ってたよ」
「えっ、マジで!?」
「詳しくは知らないけど。うちみたいな大きい会社になるとモテモテすぎて困るよね」
「……だよね……というか、怖いね……」
そこまで話して2人はようやく足を速める。異性に時めかずホルモンバランスが崩れる現代病、レスエストは発見当初は随分騒がれたが今もそれは落ち着き、会社も病気として認識してくれるように社会のシステムの中に組み込まれている。
大抵なるのは、オタクや引きこもりよりも、普通に生活している簡素なビジネスマンが多いからだ。異性に時めくよりも、数字に時めいているような人がかかりやすく、ダルイ、不眠、吐き気、頭痛などが初期症状らしい。更に症状が進むと、初期症状が重くなるようだがそれも個人差があるようで、気にならない人は治療もしないと聞く。
まあ、自分には無縁の話だし、沙衣吏もその対象ではない。と、信じたい。
「さ、仕事終わったし明日は連休だー!」
沙衣吏は嬉しそうに声を上げた。
「バレンタイン、彼氏に何かしたー?」
流れにのって、確認しておく。
「これから、これから。彼氏がなんか知らないけど温泉行きたいとか言うからさあ。そこで渡そうかなって」
なんだやっぱり違うんだ……。
羨ましさを通り越して妬ましいとさえ思った瞬間、トランシーバーのイヤホンから
『麻見さん、麻見さん、カウンターに後藤田様というお客様がご来店されています。至急こちらまでお願いします』
後藤田の顔よりも、先に武之内の無表情が目の前に浮かんだので、すぐにトランシーバーに発信する。
「麻見はもう仕事上がってますので、駐車場でお待ちいただくようにお伝え下さい。個人的な知り合いですので」
『了解』
すぐにトランシーバーの電源を切る。
「彼氏?」
沙衣吏はにやけて聞いたが、
「んなわけないでしょー。彼氏欲しいけど……。欲しいけど、今はなんかぴんとこないなあ」
「そうなんだ。私もう今の彼氏と長いから全然その感覚分かんないなあ」
「何年?」
「18の時からだから6年」
「あそうだ。去年5年とか言ってたね」
2人はロッカーに入り、素早く身支度をしてすぐに駐車場に向かう。
廊下に出るとまだ店長室で盛り上がっている声が聞こえた。
「じゃあ行ってくる」
麻見は小走りで先を急ごうと沙衣吏に小さく手を振る。
「うん、お疲れ様―」
機嫌良く送り出されて、背中を押されるとほっとした。
今日は例え従業員通用口で秘書が待っていても、武之内は店長室だから大丈夫だ。
階段を駆け下り、角を曲がると通用口が見える。
出口はすぐそこだ。
「麻見」
「!!!!………」
背後から呼び止められ、驚いて固まった。
(2/15)
2月14日の日曜日は売り場が忙しく、武之内が休憩時間をあまりとらなかったためだと思われる。
15日の月曜日にバレンタインのチョコを渡している子が何人かいるのは。
午後6時、売り場が落ち着き店長室で事務仕事をしていた本人を取り囲み、数人の女性はわいわい騒いでいた。
それを横目にスタッフルームを目指していた麻見の隣で、沙衣吏は淡々と言った。
「あぁいう賄賂は渡しといた方がいいのよ。持って来てないの? 今からコンビニで買えば間に合うよ。半額だし」
「…………」
そんなこと、言われても、言われなくてもする気には到底なれない。
「沙衣吏は?」
返事に困ってとりあえず聞く。おそらく彼氏にしかあげないに決まっているだろうけど。
「渡したよ。早めに。というか、誰が店長でも毎年渡してる」
「そうだったんだ!!」
凛とした表情で廊下の先のスタッフルームを見つめた沙衣吏は、当然とでも言いたげだった。ついでに、義理でそこには何の感情もない、と。
でもそれが、その出世に繋がっているのかもしれない。店長も男だし、義理でも貰えれば心が揺らぐはずだ。
しかしいや、沙衣吏は元々実力があるからそんなことは関係ない、か……。
「苦手でしょ? 武之内店長のこと」
「うん。渡せないよ。渡しにくい。渡す時が嫌だ」
「ロッカーに入れとけばいいよ」
「そんなの無理無理。いい、別に。嫌われてても次の店長に賭けるから」
「何年先になるかも分からないのに……」
優しい声で苦笑されたが、来月からは高岡部長の元で働く予定になっている。人事部からの内示もまだ出ていない状態で情報を漏らすことはできないので黙っているが、もうこの店ともおさらばだ。
入社以来2年間、歩き続けた廊下ともさよならだ。泣いたことはあまりないが、笑いながら通ったこの廊下、冗談を言い合い誤差を出しまくったレジ、ワケの分からないいたずら電話をとって皆で悩んだカウンター、失くしたこともあったけど、ほぼそんなこともなく毎日使い続けたファイル、時々かけたモップ。全部が全部、これからは他店として扱うようになり、自分は本社へ向かうのだ。
高岡部長の元がどういう所かは知っている。
店舗のはみ出し者を部長の力で改善し集わせる十数名の部署だ。
もちろんそこで出社して役職をもらった人もいるし。本社の役員に自分をアピールすることもできる。絶対にこれはチャンスだ。今まで出世というものに縁がなかった自分だが、ようやく一歩踏み出せる。
最初は辛いかもしれないが、一段階だけ上がれば、はみ出し者を束ねる側にまわれる。
肩書は本社になるし、実は穴場なのかもしれない。
「あそうだ。先月くらいの話なんだけど」
夕方を過ぎても崩れないその横顔を見た。それほど重要な話ではなさそうだ。
「私の知り合いがねー。レスエストだったみたいで、すごく悩んでてね」
「へー……」
身近な知り合いの話などあまりしない沙衣吏が珍しいなと思いながら、しかしレスエストという病気には少し興味があったので聞いた。
「あれだよね? 会社の健康検査で分かるんだよね? 欄があったよね?」
「うんある。それでひっかかったんだって。でその子が行ってる所は個人経営の会社で、その情報をみんなに知られちゃって。よってたかっての状態」
「え゛!? あれだよね? なんか女性ホルモンが少なすぎて体調崩しやすくなるから、あのー時めいて、ドキドキして、エッチとかしなきゃいけないんだよね? そういう病気のやつだよね??」
「うん、一回したからってなかなか改善しないとは言ってたけど。まあ要は本人は病気治したいし、男はしたいし。それがうまくいってるというか。
元は結構引っ込み思案な子なんだけど、最近は派手だよー。そういう意味で会社でモテまくってるからね」
「…………、どうなの、それ?」
麻見は顔を歪ませたままで聞いたが、沙衣吏はしれっと
「いんじゃない? 」。
「……い、いいの、それ?」
沙衣吏らしいといえば沙衣吏らしい答え方だが、よってたかって状態の妄想がどんどん膨らんでしまい、とても良いとは思えない。
「愛はあとからついてくるかもしれないし。モテ期ってことよ。要は」
「ま、確かにモテ期だけれども……。とっかえひっかえ? 大丈夫なのそれ?」
「身体には良いらしいよ。髪の毛とか肌もつやつやになって、眩暈がなくなったって」
「へー……」
普段全くそんな話をしない沙衣吏がどうしたことかと心配になった。まさか、この前の検査で陽性だったんだろうか。
でもまだ、検査結果出てないしな……。
それに彼氏いて時めいてるし、エッチもしてるだろうから病気にはならないだろうしな……。
「知ってた? あれって、そういう相手が見つからない時のために、病院も風俗みたいなの紹介してるらしいよ?」
どうしよう。なんかすごく詳しい。
彼氏ってもしかして嘘だったんだろうか。それともあんまり仲良くないんだろうか。
「……し、知らない知らない。だってあれってまあ、レアケースなんじゃない?」
「でもうちの会社もいるって言ってたよ」
「えっ、マジで!?」
「詳しくは知らないけど。うちみたいな大きい会社になるとモテモテすぎて困るよね」
「……だよね……というか、怖いね……」
そこまで話して2人はようやく足を速める。異性に時めかずホルモンバランスが崩れる現代病、レスエストは発見当初は随分騒がれたが今もそれは落ち着き、会社も病気として認識してくれるように社会のシステムの中に組み込まれている。
大抵なるのは、オタクや引きこもりよりも、普通に生活している簡素なビジネスマンが多いからだ。異性に時めくよりも、数字に時めいているような人がかかりやすく、ダルイ、不眠、吐き気、頭痛などが初期症状らしい。更に症状が進むと、初期症状が重くなるようだがそれも個人差があるようで、気にならない人は治療もしないと聞く。
まあ、自分には無縁の話だし、沙衣吏もその対象ではない。と、信じたい。
「さ、仕事終わったし明日は連休だー!」
沙衣吏は嬉しそうに声を上げた。
「バレンタイン、彼氏に何かしたー?」
流れにのって、確認しておく。
「これから、これから。彼氏がなんか知らないけど温泉行きたいとか言うからさあ。そこで渡そうかなって」
なんだやっぱり違うんだ……。
羨ましさを通り越して妬ましいとさえ思った瞬間、トランシーバーのイヤホンから
『麻見さん、麻見さん、カウンターに後藤田様というお客様がご来店されています。至急こちらまでお願いします』
後藤田の顔よりも、先に武之内の無表情が目の前に浮かんだので、すぐにトランシーバーに発信する。
「麻見はもう仕事上がってますので、駐車場でお待ちいただくようにお伝え下さい。個人的な知り合いですので」
『了解』
すぐにトランシーバーの電源を切る。
「彼氏?」
沙衣吏はにやけて聞いたが、
「んなわけないでしょー。彼氏欲しいけど……。欲しいけど、今はなんかぴんとこないなあ」
「そうなんだ。私もう今の彼氏と長いから全然その感覚分かんないなあ」
「何年?」
「18の時からだから6年」
「あそうだ。去年5年とか言ってたね」
2人はロッカーに入り、素早く身支度をしてすぐに駐車場に向かう。
廊下に出るとまだ店長室で盛り上がっている声が聞こえた。
「じゃあ行ってくる」
麻見は小走りで先を急ごうと沙衣吏に小さく手を振る。
「うん、お疲れ様―」
機嫌良く送り出されて、背中を押されるとほっとした。
今日は例え従業員通用口で秘書が待っていても、武之内は店長室だから大丈夫だ。
階段を駆け下り、角を曲がると通用口が見える。
出口はすぐそこだ。
「麻見」
「!!!!………」
背後から呼び止められ、驚いて固まった。