徹底的にクールな男達
 後ろを振り返ると、まだ階段を小走りで降りてきている武之内の姿が見えた。

 すぐに目の前まで来ると、上から見下ろし、

「後藤田さんが来てるんだって? 俺が話する」。

 怖かった。その、無表情が。

だけれども、それは間違っていると即座に判断し、

「わ、私宛てに来てる、私の知り合いです。個人的な話です。……仕事の話じゃありません」

 緊張で声が少し震えた。

「…………、あそう」

「……お疲れ様でした」

 振り返りながら小声で言ったので聞こえていないかもしれない。

 だけどそんなことはどうでもよかった。

 早くその場から逃げ出したかった。

 廊下を走り切り、通用口から出る。

 通用口から少し離れた壁際でやはり秘書は待ち伏せしていた。

「すみません、遅くなってしまって」

「社長がお待ちです」

 秘書に案内されるがまま、駐車場の端に停めてあるプレジデントの後部座席に何の疑いもなく乗り込む。

「すみません、お待たせ致しました」

「いや」

 後藤田はタバコをふかせ、いつもより表情が余裕に見えた。

「あの、前回の見積書の件はすみません……」

「ああ、後から会社から電話があった」

「のようです……。お手間をとらせてすみませんでした」

 麻見は精一杯頭を下げて、きちんと謝っておく。

「それはいい。それよりこれだ」

「……はい」

 出されたのは一枚のA4のコピー用紙だった。

「…………」

 よく見る。名前は麻見依子。健康診断書だ。

「えっ!?」

 ※と記されている箇所がある。

 次に備考欄の『再検査』の文字が目に入った。

 固まって動けなかった。

 今、ついさっき沙衣吏が……。

「レスエスト陽性者は今後の研究のために政府でリスト化され、情報が管理されている。研究データが海外で高く売れるためだ。

 ……その様子だと自覚がなかったようだな」

 用紙の一番下の方、レスエストロゲンと太く書かれた文字の欄に※がついていた。

 これは、疑いがあるということだろうか。

 まだ、再検査で疑いが晴れる可能性があるということだろうか。

「……………………」

「再検査をしても同じ結果だろう。検査は常に入念に行われ、既にデータは政府に渡っている。これがその証拠だが。

まあ、念のため検査に行くべきだろう。陽性が確定したら病院で色々紹介されるかもしれんがやめとけ。保険はもちろんきかんし碌なことにならん。

 選ぶなら、俺にしとけ」

 麻見は、ようやく用紙から顔を上げて後藤田を見た。その端正な切れ長の目はこちらをきちんと捉え、細める。吸い込んでいる煙が苦いのかもしれない。

「再検査が終わったらいつもの所に電話をかけてこい。俺が必ずお前の身体を治してやる」

 その、まっすぐな視線がとても嘘には思えなかった。

 どんな医者よりもその言葉を信じるべきだと、思わされる。

「…………、…………」

「社長」

 秘書は、運転席から声をかけた。車はまだ停車したままで、全く動いてはいない。

「今日も時間があれば良かったんだが……」

 後藤田は長い腕を伸ばし、頬に触れた。

「そうもいかん」

 だが、すぐに手は離れる。

「体調が悪いのであれば会社を休んでおけ。そろそろ検査結果も手元に届くだろうし、何も問題はない」

「社長、そろそろお時間です」

 秘書は話の途中だが再度念を押した。本当に時間がないのかもしれない。

「…………」

 麻見は黙って車のドアを開けた。

「身体に気を付けろ」

 後ろから、温かい声が飛ぶ。

 それに頷いて答え、車から降りた。

 すぐに、車は走り去ってしまう。

 とりあえず外灯の下まで歩き、もう一度用紙を確認した。これが偽物の可能性はゼロだ。なぜなら、すぐに原本が手元に届くからである。

 寒さからか、身体が震えた。

 武之内のせいで体調が悪いと思っていたが、そうではなかったということになる。

 見る人からみれば分かるほど、身体が弱体化している。

 病院に行かなければいけない。まずは再検査で確認しないといけない。

 原本はいつ届くのだろうか。

 それがないと再検査には行けない。

 麻見は店の入口からもう一度中に入った。武之内なら原本がいつ届くのか知っているはずだ。

 入口付近で掴まえた社員に武之内の居所を聞き、店長室だと分かる。

 そのまま、店長室に向かった。

 原本が届いたら翌日には検査に行きたい。

 そのためには、予め休みをとらなければならない。

 そして陽性だったら……。

 後藤田に電話をかけて……。

 そこまで考えている間に店長室にたどり着いた。ドアはいつも通り開け放たれており、中では、部門長の福原と何やら話し込んでいる。

 しかし、そんなことよりも今優先させなければいけないことがあった。

「すみません」

 麻見は手に白いコピー用紙を握ったまま室内に入った。

「何?」

 武之内は邪魔だとでも言うように、若干こちらを睨んでいるがそんなことはどうでもいい。

「福原さん、すみません、ちょっと」

 福原には知られたくはない。

 福原と武之内は一旦目を合せると、

「じゃあ、売り場に戻ります」

とそのまま引いて出て行く。

 それを確認した麻見は、すぐにドアを閉めた。

「何?」

 武之内は訝しげな顔を隠しもせずに、再度聞いた。

「私の健康検査の結果はいつ届きますか?」

「え? さあ……そろそろだと思うけど。それが何?」

「日にちとか、分かりませんか? 私ちょっと……休みをとらないといけないので」

「何で? 意味が分からないけど」

 呆れ顔をされたが、そんなことは関係ない。こちらが言っていることの方が正しいに決まっている。

「あの、検査結果が大体分かって……、多分再検査しなきゃいけないので……」

「……病院から連絡があったの? それとも、そんな気がするだけ?」

 そんな気がするだけで、話に来るはずがない!

「今ちょっと知り合いから検査結果を聞いたんです」

「後藤田さん?」

 武之内は素早く切り返した。

「…………とはまた関係ないですけど」

「…………、まあ体調悪いんなら病院行ったら?」

 再検査するなら体調が悪いに決まってるのに。なんなのその言い草……。

「半年ぐらい前から調子悪くて……。レスエストみたいです。……再検査したって治るわけじゃないけど」

「……じゃ、休む? 明日」 

 武之内はくるりと向きを変え、壁に張り出したシフト表を睨んだ。

 そういうことじゃないのに。

 なんかまるで、病気を理由にずる休みさせてくれって言ってるみたいな……。

「有給とるんなら用紙に書いといて。……いつもの場所に……、おいっ!?」

 一瞬足に力が入らなくなって、床に手をついた。

「大丈夫か!?」

 そう言いながら、椅子から降りたものの、武之内は距離をとってしゃがんでいるだけで。

「…………」

 悲しくて、悔しくて、やるせなくて、涙が出た。

「麻見……。何? 気分悪いの?」

 その声がとても鬱陶しそうで。涙は途端に引き、胸に重い閊え(つかえ)だけが残る。

「有給なんか、どうでもいいです」

「…………」

 武之内は何も言わない。

「帰ります」

 麻見は自らの力で立ち上がると後ろも振り返らずにそのまま店長室を出た。

 歩くと、確かに眩暈のような気持ち悪さが込み上げたが、今この部屋の中の空気を吸うことすら、嫌で仕方なかった。
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