徹底的にクールな男達
♦
暑くて目が覚めた。途端、黒いコートが目に入ってくる。
「…………」
トレンチコートのタグが目に入り、ブランド名が見えたがメンズブランドは全く知らないので高級な物かどうかは分からない。
運転席の武之内を見るとシートを倒して腕を組み、目を閉じていた。
コートはもろちん武之内の物だ。
眠っていると思ってわざわざかけ、しかも、駐車場の隅でアイドリングしている。
時計は午前11時。周囲を見渡し、おそらく自宅から20分ほど走った場所だと分かり、一時間近く寝ていたことを知った。
「…………」
麻見はもう一度コートを見つめて想った。
どんな気持ちでコートをかけたんだろう。
妊娠していた時のことを考えてだろうか。
もし、妊娠していなかったとしたら、どう思うだろう。
「…………」
麻見は車のドアをゆっくりと開けた。それでも室内に音が響き、武之内は目を覚ましてしまう。
「い……行って来ます」
「いや。ついて行くよ。……1人がいい?」
「…………」
ドアの外にある病院を見上げた。三階建てほどの個人病院だが一人で入るのは勇気がいる。
「行くよ」
武之内は白いセーターのままで車の外に出ると、助手席側にまわってきた。
「コート……」
麻見がコートを手渡すと、それを無言で着る。
2人は並んで駐車場を歩き始めた。
「武之内店長」
そばに寄って、素直に言った。
「ついて来てもらって、すみません……」
「ピルでも避妊率は100%じゃない」
突然、まっすぐ前を向いたまま言われた。何が言いたいのか分からなくて怖くて、その白く平たい頬を見つめたまま立ち止まった。
「万が一避妊に失敗して、妊娠しても、責任はとるから」
「…………え」
責任?
武之内も同じように止まる。
「…………麻見も困るだろうし」
ただ、その付け加えられた言葉とこちらを見ていない横顔から、それが出産ではなく、堕胎であることを悟った。
堕胎するのにもお金がかかる、それを面倒みると言っているようだった。
麻見は一点を見つめたまま、息をするのも忘れていた。
「……行こう」
武之内の手が背中に触れ、思わず前へ踏み出した。
一瞬離れた手が、再び触れたので、
「するんじゃなかった」
心の底から湧き出た一言を低い声で放った。なのに、
「…………まあ妊娠してないだろうから」。
睨むつもりで、見上げた横顔はいつもの無表情で。
もう、絶対に嫌だとその時はっきりと感じた。
「もういいです。ついて来ないで。仕事もやめます。ほっといてください」
麻見は1人、歩き出した。
涙が溢れて、喉が痛かったがそのまま歩き続けて駐車場を出た。
何でこんなことばっかりなんだろう。
どうしてこんなに嫌われないといけないんだろう。
病院の入口に到着し、低い階段をあと数段上がれば自動ドアが開く。
濡れた頬を手で拭き、息を整えていると中から女性が現れた。
お腹が丸く大きく、それを抱えるように両手を添えて歩いて階段を下りてきている。
麻見は、よけるように端へ寄り、お腹を見つめた。
あんなに大きく……あんな風に、大きく……。
一瞬、目の前が真っ暗になり、足がよろけた。
両手が地面に着いたせいで手が痛い。
息ぐるしくて、光が見えない。
目が覚めた時、最初に見えたのは白いシーツだった。
今日は何曜日だろう、仕事は何時からだっただろう、今日しないといけないことは何だっただろうか……。
「……起きた?」
男性の声がして、顔を上げた。
「看護婦さん呼んでくる」
武之内……そうだ。産婦人科に来たんだった。
「はいはーい、どうですかー?」
すぐに白いパンツスタイルのナース服を着た看護婦が見えた。まず目に入ったのは明るい茶色い髪の毛で、次に黒縁のメガネだった。
メガネをとれば美人なのにちょっと惜しい感じだが、年は30そこそこか、まだ若そうだった。
「…………倒れたん、でしたっけ?」
麻見はナースに聞いた。
「覚えてない? うちの入口の前で倒れて、うちの患者さんが見つけてくれたの。しばらくしたら、付添の方が心配して見に来てくれて。良かったね、病院の前で。はい、体温計挟んで」
「…………はい」
麻見は言われるがままに、差し出された体温計を脇にはさんだ。
ナースは手に持ったバインダーに何か書き込みながら、
「レスエストっていうのは間違いない?」。
既に情報が伝わっていたことに、若干カチンときたが、まあ仕方ない。
「……はい……」
「会社の健康診断で分かったの?」
「はい」
「眩暈はよくする?」
「最近は二回目です」
「一週間に一、二回?」
「それくらいですね」
「他に症状はある? 頭痛、吐き気、腹痛、下痢とか」
「特に、は……」
小さな音で電子音が鳴り、ナースは「平熱ね」と体温計を取った。
「あ、ティッシュ」
ナースはベッドの頭の方の棚にあるティッシュを二、三枚取ると、手渡してくれた。
「涙が流れてる。結構涙もろくなったりするからね。情緒不安定になって。何気ないことを深く考えすぎたりするから」
「……そんな気がします……」
何気ないことではないが、些細なことも見逃せなくなっている気がする。
「今日はアフターピル処方に来たんだっけ」
そこで、ナースは部屋の隅から簡易椅子を取り出すと、自らのお尻の下に敷き込んだ。
「あ、はい……」
ナースの視線が低くなり、目がばっちり合った。
「処方できるんだけどね、身体にはよくないから」
「…………」
ゆっくりと発音された声が身体に染み渡った。
「レスエストの患者さんは、妊娠したら通常の女性と同じようなホルモンバランスに戻れ
るんだけど。何もしないと精神的にも身体的にも随分不安定なの」
「…………でも、今妊娠しても困るし……育てて行けない」
「それなら、アフターピル飲んだ方がいいけどね。飲むと身体の熱を無理矢理上げて精子を殺すから、個人差はあるけど熱が出るし、出血したりするし。身体に負担はかかるからね。
だから、今妊娠できないけど治療が必要なレスエストの患者さんにはピルを勧めてるの。忘れず飲まなきゃいけないから大変だけど、身体は安全だからね。副作用も個人差で出るけど、……飲まないわけにはいかないからね。できちゃった後からじゃ遅いから」
「…………」
麻見は何を言えばいいのか分からなくてただ黙っていた。
「でも、アフターピルもピルも100%避妊できるわけじゃないから。今飲もうとしてるアフターピルも75%くらいの避妊率のと85%くらいの避妊率のと二種類あるけど」
「な、何が違うんですか?」
「値段。両方とも保険はきかないけど。七千円と一万五千円の差」
「高い方でお願いします」
充分払える額だ。
「でも、飲んでも妊娠する人も稀にいるからね。それだけはご了承下さいね」
「に……妊娠したら、その人はどうするんですか?」
低い声が部屋に響いた気がした。
「中絶しかないね、残念だけど」
中絶……子宮をメスで裂かれる……。
赤ちゃんが、子宮の中で育っている赤ちゃんが……。
「大丈夫?」
「妊娠してたら、どうしよう……」
目の前が真っ暗になった。100%の保障がほしい。でないと安心できない。
「それは……周りの方との相談も必要だからね。自分1人じゃなかなか解決できないから」
周りの人って誰……。こんなこと、親にも誰にも言えるわけがない……。
「…………」
「……じゃあアフターピルの処方を、診察の時に先生にお伝えしてね」
ナースは椅子を引いて元に戻すと、出入り口の前に立ち、「診察の順番がきたら、呼びますから」と言って出て行った。
扉が閉まったと同時に、
「やめといた方がいいんじゃない?」
部屋の隅で存在を消していた武之内が、今ナースがしまったばかりの椅子を同じように取り出し、目の前で腰かけた。
「何をですか?」
麻見は低い声で聞いた。
「アフターピル」
「……そもそも、それがあるからゴムつけなかったんじゃないんですか?」
「そういうわけではないけれど」
「…………」
何を言われたわけでもないのに、また涙が溢れた。
「私……武之内店長と一緒にいるだけで苦しい」
声が震えたが構わず続けた。
「私のことを馬鹿にしてるみたいな、見下した目線でいつも見てくるから」
「…………」
「サインしたのだって、会社からの推薦があるから適当に書いとこうくらいのつもりだったんでしょ……それでゴムもつけずに……妊娠したら、会社やめるだろうって思ってたんでしょ……」
「思ってないよ」
声で怒っているのが分かった。
「だって、沙衣吏にはあんなに笑顔で話かけるくせに。バレンタインのチョコだって、嬉しそうに受け取ってたのに。
何で私だけいつもこんななんですか!?
何で私だけ掃除なんですか!?
何で倉庫なんですか!?
やめろってことじゃないんですか!?
他の人ならもっと、大切にしてるんじゃないんですか!?
……もう…………やめますけど」
話がどんどんずれていっていたが、内から溢れるのを止められなかった。
「それで、仕事をやめるの?」
武之内は冷静に聞いた。
「…………やめたくないけど。前はすごく楽しくて、仕事を嫌だなんて思ったことなかったけど。
今はやめた方が楽な気がする」
「……少し休んだら? 病気休暇で二週間くらい休みがとれるよ」
ああ、なんか話するのが面倒だと思われてる。
「……………」
「まあ、仕事の話は後でもいいから。今はアフターピルをどうするか」
「もらいます。身体のことよりも、妊娠しない方が大事です」
「…………、そう」
「むしろ今は……死にたい気分です」
暑くて目が覚めた。途端、黒いコートが目に入ってくる。
「…………」
トレンチコートのタグが目に入り、ブランド名が見えたがメンズブランドは全く知らないので高級な物かどうかは分からない。
運転席の武之内を見るとシートを倒して腕を組み、目を閉じていた。
コートはもろちん武之内の物だ。
眠っていると思ってわざわざかけ、しかも、駐車場の隅でアイドリングしている。
時計は午前11時。周囲を見渡し、おそらく自宅から20分ほど走った場所だと分かり、一時間近く寝ていたことを知った。
「…………」
麻見はもう一度コートを見つめて想った。
どんな気持ちでコートをかけたんだろう。
妊娠していた時のことを考えてだろうか。
もし、妊娠していなかったとしたら、どう思うだろう。
「…………」
麻見は車のドアをゆっくりと開けた。それでも室内に音が響き、武之内は目を覚ましてしまう。
「い……行って来ます」
「いや。ついて行くよ。……1人がいい?」
「…………」
ドアの外にある病院を見上げた。三階建てほどの個人病院だが一人で入るのは勇気がいる。
「行くよ」
武之内は白いセーターのままで車の外に出ると、助手席側にまわってきた。
「コート……」
麻見がコートを手渡すと、それを無言で着る。
2人は並んで駐車場を歩き始めた。
「武之内店長」
そばに寄って、素直に言った。
「ついて来てもらって、すみません……」
「ピルでも避妊率は100%じゃない」
突然、まっすぐ前を向いたまま言われた。何が言いたいのか分からなくて怖くて、その白く平たい頬を見つめたまま立ち止まった。
「万が一避妊に失敗して、妊娠しても、責任はとるから」
「…………え」
責任?
武之内も同じように止まる。
「…………麻見も困るだろうし」
ただ、その付け加えられた言葉とこちらを見ていない横顔から、それが出産ではなく、堕胎であることを悟った。
堕胎するのにもお金がかかる、それを面倒みると言っているようだった。
麻見は一点を見つめたまま、息をするのも忘れていた。
「……行こう」
武之内の手が背中に触れ、思わず前へ踏み出した。
一瞬離れた手が、再び触れたので、
「するんじゃなかった」
心の底から湧き出た一言を低い声で放った。なのに、
「…………まあ妊娠してないだろうから」。
睨むつもりで、見上げた横顔はいつもの無表情で。
もう、絶対に嫌だとその時はっきりと感じた。
「もういいです。ついて来ないで。仕事もやめます。ほっといてください」
麻見は1人、歩き出した。
涙が溢れて、喉が痛かったがそのまま歩き続けて駐車場を出た。
何でこんなことばっかりなんだろう。
どうしてこんなに嫌われないといけないんだろう。
病院の入口に到着し、低い階段をあと数段上がれば自動ドアが開く。
濡れた頬を手で拭き、息を整えていると中から女性が現れた。
お腹が丸く大きく、それを抱えるように両手を添えて歩いて階段を下りてきている。
麻見は、よけるように端へ寄り、お腹を見つめた。
あんなに大きく……あんな風に、大きく……。
一瞬、目の前が真っ暗になり、足がよろけた。
両手が地面に着いたせいで手が痛い。
息ぐるしくて、光が見えない。
目が覚めた時、最初に見えたのは白いシーツだった。
今日は何曜日だろう、仕事は何時からだっただろう、今日しないといけないことは何だっただろうか……。
「……起きた?」
男性の声がして、顔を上げた。
「看護婦さん呼んでくる」
武之内……そうだ。産婦人科に来たんだった。
「はいはーい、どうですかー?」
すぐに白いパンツスタイルのナース服を着た看護婦が見えた。まず目に入ったのは明るい茶色い髪の毛で、次に黒縁のメガネだった。
メガネをとれば美人なのにちょっと惜しい感じだが、年は30そこそこか、まだ若そうだった。
「…………倒れたん、でしたっけ?」
麻見はナースに聞いた。
「覚えてない? うちの入口の前で倒れて、うちの患者さんが見つけてくれたの。しばらくしたら、付添の方が心配して見に来てくれて。良かったね、病院の前で。はい、体温計挟んで」
「…………はい」
麻見は言われるがままに、差し出された体温計を脇にはさんだ。
ナースは手に持ったバインダーに何か書き込みながら、
「レスエストっていうのは間違いない?」。
既に情報が伝わっていたことに、若干カチンときたが、まあ仕方ない。
「……はい……」
「会社の健康診断で分かったの?」
「はい」
「眩暈はよくする?」
「最近は二回目です」
「一週間に一、二回?」
「それくらいですね」
「他に症状はある? 頭痛、吐き気、腹痛、下痢とか」
「特に、は……」
小さな音で電子音が鳴り、ナースは「平熱ね」と体温計を取った。
「あ、ティッシュ」
ナースはベッドの頭の方の棚にあるティッシュを二、三枚取ると、手渡してくれた。
「涙が流れてる。結構涙もろくなったりするからね。情緒不安定になって。何気ないことを深く考えすぎたりするから」
「……そんな気がします……」
何気ないことではないが、些細なことも見逃せなくなっている気がする。
「今日はアフターピル処方に来たんだっけ」
そこで、ナースは部屋の隅から簡易椅子を取り出すと、自らのお尻の下に敷き込んだ。
「あ、はい……」
ナースの視線が低くなり、目がばっちり合った。
「処方できるんだけどね、身体にはよくないから」
「…………」
ゆっくりと発音された声が身体に染み渡った。
「レスエストの患者さんは、妊娠したら通常の女性と同じようなホルモンバランスに戻れ
るんだけど。何もしないと精神的にも身体的にも随分不安定なの」
「…………でも、今妊娠しても困るし……育てて行けない」
「それなら、アフターピル飲んだ方がいいけどね。飲むと身体の熱を無理矢理上げて精子を殺すから、個人差はあるけど熱が出るし、出血したりするし。身体に負担はかかるからね。
だから、今妊娠できないけど治療が必要なレスエストの患者さんにはピルを勧めてるの。忘れず飲まなきゃいけないから大変だけど、身体は安全だからね。副作用も個人差で出るけど、……飲まないわけにはいかないからね。できちゃった後からじゃ遅いから」
「…………」
麻見は何を言えばいいのか分からなくてただ黙っていた。
「でも、アフターピルもピルも100%避妊できるわけじゃないから。今飲もうとしてるアフターピルも75%くらいの避妊率のと85%くらいの避妊率のと二種類あるけど」
「な、何が違うんですか?」
「値段。両方とも保険はきかないけど。七千円と一万五千円の差」
「高い方でお願いします」
充分払える額だ。
「でも、飲んでも妊娠する人も稀にいるからね。それだけはご了承下さいね」
「に……妊娠したら、その人はどうするんですか?」
低い声が部屋に響いた気がした。
「中絶しかないね、残念だけど」
中絶……子宮をメスで裂かれる……。
赤ちゃんが、子宮の中で育っている赤ちゃんが……。
「大丈夫?」
「妊娠してたら、どうしよう……」
目の前が真っ暗になった。100%の保障がほしい。でないと安心できない。
「それは……周りの方との相談も必要だからね。自分1人じゃなかなか解決できないから」
周りの人って誰……。こんなこと、親にも誰にも言えるわけがない……。
「…………」
「……じゃあアフターピルの処方を、診察の時に先生にお伝えしてね」
ナースは椅子を引いて元に戻すと、出入り口の前に立ち、「診察の順番がきたら、呼びますから」と言って出て行った。
扉が閉まったと同時に、
「やめといた方がいいんじゃない?」
部屋の隅で存在を消していた武之内が、今ナースがしまったばかりの椅子を同じように取り出し、目の前で腰かけた。
「何をですか?」
麻見は低い声で聞いた。
「アフターピル」
「……そもそも、それがあるからゴムつけなかったんじゃないんですか?」
「そういうわけではないけれど」
「…………」
何を言われたわけでもないのに、また涙が溢れた。
「私……武之内店長と一緒にいるだけで苦しい」
声が震えたが構わず続けた。
「私のことを馬鹿にしてるみたいな、見下した目線でいつも見てくるから」
「…………」
「サインしたのだって、会社からの推薦があるから適当に書いとこうくらいのつもりだったんでしょ……それでゴムもつけずに……妊娠したら、会社やめるだろうって思ってたんでしょ……」
「思ってないよ」
声で怒っているのが分かった。
「だって、沙衣吏にはあんなに笑顔で話かけるくせに。バレンタインのチョコだって、嬉しそうに受け取ってたのに。
何で私だけいつもこんななんですか!?
何で私だけ掃除なんですか!?
何で倉庫なんですか!?
やめろってことじゃないんですか!?
他の人ならもっと、大切にしてるんじゃないんですか!?
……もう…………やめますけど」
話がどんどんずれていっていたが、内から溢れるのを止められなかった。
「それで、仕事をやめるの?」
武之内は冷静に聞いた。
「…………やめたくないけど。前はすごく楽しくて、仕事を嫌だなんて思ったことなかったけど。
今はやめた方が楽な気がする」
「……少し休んだら? 病気休暇で二週間くらい休みがとれるよ」
ああ、なんか話するのが面倒だと思われてる。
「……………」
「まあ、仕事の話は後でもいいから。今はアフターピルをどうするか」
「もらいます。身体のことよりも、妊娠しない方が大事です」
「…………、そう」
「むしろ今は……死にたい気分です」