徹底的にクールな男達

破綻


 その日は11時上がりのシフトだった。

 夜家を空けるのは心配なので、本当は遅出遅上がりの日をなくしたいところだが、シフト作成の上で個人的な理由を優先するわけには絶対にいかない。

 そう思って夜はなるべく残業をしないようになったせいか、早くも社員から「結婚して丸くなった」と言われはじめた。そこで、ようやく「丸くなる」というのはこういうことかもしれない、と思う。

 店のセコムをセットして、車に乗って、家まで40分。

 依子が来てから家の中では禁煙しているので、車の中だけは自分へのご褒美に煙草を吸う。仕事をしてきたんだ、それくらいのストレス発散は許されるはずだ。

 母体や子供に煙草がよくないことは、よく承知している。勉強して、コーヒーや紅茶も控えなければならない事を学んだし、鉄分を摂取しなければならないことも知った。なので、コンビニでもおにぎりの他にプルーンや、鉄分入りのジュースを買ったりしている。

 本人は、あまり食べないが。

 そういう好き嫌いをしている場合じゃないだろう、と思う。

 言ったら言ったで、悲しそうな顔をして無言で食べるのでできるだけ言わないようにはしているが、せっかく買って来たのにずっとテーブルの上に放置されているとやっぱり腹が立つ。

 自分のことを考えている場合ではない、子供のことだけを考えてやらなければならないのに。

 若いせいでそれができないのか、産まれてないせいで実感がわかないのか、はたまた、
そういう人間だったのかはまだ読み切れない。

 しかし後者の場合、依子自身の改革もしていかなければならないと思うと、少し荷が重い。

 まあ、母は強しというし、どうにかこうにか自覚を持ってくれさえすればいいが……。

 溜息をつきながら、コンビニで晩御飯を買い、ようやく自宅に到着する。駐車場に車を置いて、エレベーターで上がるともうすぐそこだ。

 依子の体調は本当に早くよくなって欲しい、せっかく結婚したのに、いい加減弁当生活にも飽きた。

 そう思いながら鍵でドアを開けた。

 既に12時を過ぎようとしている。この時間になると大抵ベッドにいるのでわざわざ出て来なくてもいいように、配慮して自分でドアを開けることにしている。

 が、今鍵を開けたはずなのに、鍵がかかってしまっている。

 ひょっとして、最初から開いていた?

 珍しいな、起きているのかなと思いながら、施錠を解除して、中を覗いた。

 電気がついていない。

 完全に寝入っているのだろうか。

 少し不安に思いながら、先へ進む。

「……」

 玄関の電気をつけて、リビング、キッチン、寝室、風呂、書斎、トイレ、全て確認する。

だが、どこにもいない。

「依子?」

 どこにもいないことが分かってるはずなのに、呼んだ。

「依子!?」

 買い物にでも出た?

 不安にかられながら、ベランダを確認しつつ携帯を光らせ、すぐに発信する。コンビニくらいなら帰りにいつも寄るのに、こんな時間に一体どこで、何を!!!

『はい』

 すぐに出た。一気に胸を撫で下ろす。

「どこ!? 家にいないみたいだけど」

『……病院』

 鼻声になっている。しかも、……

「病院!? どっか……」

『流産した』

 目の前が真っ暗になった。りゅうざん? 流産って、流産ってつまり……。

「う、う……」

 産まれたってこと……じゃ……ない。

「死んだってこと?」

 そんな恐ろしい言葉を放っている自分が信じられなかった。

 耳からは、溜息のような、泣き声のようなそんな声しか聞こえてこない。

「何で早く電話しなかった!?」

 とにかく、何がなんだか分からないし、腹が立った。

「……今どこ!?」

 イライラが、一気に募る。

『……いつもの……』

「ああ、林クリニック……。今から行くよ、着いたら電話する」





 3階建ての個人病院である林クリニックはこの辺りでは評判が良いのか、夜中にも関わらず、駐車場には数台車が停車していた。

 車中、ショックすぎて、涙が出た。

 はっきり言って、この子供のために結婚をしたし、心の準備もしたし。両親も……とても残念がるだろう。

 しかし何で、何でこんな、何で流産なんか……。

 溜息を何度もついて、携帯を取り出す。

「もしもし、今ついた。どこ? 何号室?」

『……203』

「ああ、すぐ行く」

 小走りで院内へ入り、聞いた通りの病室をすぐに探し当てる。

 間違いない。個室の名札には「武之内 依子」とちゃんと表されていて、全てが事実だ。

 俺は一応ノックをしてから

「俺だけど」

と中へ入る。

 依子は、

「…………」

 壁の方を向いて、背を丸めて布団に潜り込んでいた。

「何があった? 何ですぐに電話しなかった」

 俺は言いながらベッド脇の簡易椅子に腰かけた。

「…………」

 待っているのに、何も言わない。

何で黙ってるんだ! たった一人で病院へ行って、何も連絡せずに!!

「聞いてるんだけど!? 大事な事だろ!? 何でそんな事になったのか! ……聞いてるんだよ」

 最後は声を荒げて隣に響くといけないと配慮してトーンを落とした。

「……かいだん……踏み外した」

「え!?」

 そんな、単純な事で!?

 何でそれくらい……。

「何で……。それくらい気をつけろよ! 分かるだろ!? 何やってるんだよ! それで……それで流産なんて、もうほんと、一体……」

 信じられなくて、信じたくなくて、その丸まった背中を睨んだ。

 もう、溜息しか出ない。

 もうほんと、何で……。

 何でそんな事くらい気を付けられないんだ。

 そもそも階段って、いつも部屋に居たんじゃなかったのか!?

 一体昼間どこで何を……。

「離婚……」

 俺は小さく放たれた声に耳を疑った。

「え!?」

「離婚して……」

「はあ!?」

 俺は勢い余って立ち上がり、依子の肩を掴んだ。

「こっち向けって!」

 振り返った泣きはらしたらしいその瞼は腫れあがっていて、電話をしたくてもできなかった事がようやくうかがい知れる。

「……」

 それでも依子は、無言で身体を起こし、ベッドの背に背中をもたせた。

 いつもの頼りない顔ではない、その表情はどこか、覚悟した色だった。

「離婚して下さい」

 どこも見ずに、はっきりと放たれる。

 そんな、バカな。

「……俺はそんな簡単な気持ちで結婚したつもりはない」

 状況が状況なだけに、依子の言葉にどれだけの意思が入り込んでいるのかは分からないが、きちんと自分の気持ちだけは言っておかなければいけない。

「もう一度、妊娠すればいい。それで、今度はちゃんと大事に……」

「もう私は……、子供は産みません」

「…………」

 俯いてはいるが、考えていたのだろう。言葉に迷いがなかった。

「だから、子供が欲しいんだったら、他の人に頼んで下さい」

 なっ!!!

 あまりにもふざけた答えに、カッとなって頬を叩いた。

 乾いた音がパチンと響いたが、正気になってもらわないと話にならなかった。

「何を言ってるんだ!! 離婚とか、他の人にとか、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!!」

 声量は落としていたが、いつの間にか立ち上がって、見下していた。

 依子は頬に手を充て、俯いたまま

「でももう私は産みません、……ぜったい……」

 声が震えて絶対という言葉がほとんど聞こえなかった。

髪の毛の間から見えた白い頬からは、涙が流れている。

 俺は溜息をついて、その青白い顔をただ見つめた。

 だが、目が合うことはない。

 大きく息を吐いて、静かに腰かける。

 言い合っている、場合ではない。

「何で……子供をもう産まないって決めた? 流産したのが悲しかったから?」

 理由を聞いて、その不安を取り除かないと依子の気持ちは変わらないだろうと気付いた俺は話を切り返して答えを待った。

 俺は、ただ一番可能性が高い理由を言ったつもりだった。

だが依子の口から出たのは。

「私を……好きになってくれる人の子供が欲しいから」

それは、流産よりもショックだった。

 それは、一体、どういう……。

「あなたは……私のことなんか、いつもどうでもいいじゃないですか」

 あなた? そんな風に呼ばれたのは初めてだった。

「そんなことっ……」

「どうでもいい風じゃないですかッ!!」

 悲鳴にも似た大声に、驚いて彼女を見た。髪を振り乱し、大きく息をする、彼女を。

「ほんとに結婚なんか、するんじゃなかった!! こんなことなら普通におろしとけば良かった!! 一緒に居たって全然楽しくない。私のことなんかまるで見てない。そんなに子供が欲しいんなら、誰か他の人に産んでもらえばいいじゃないですか!!

 私は、私を好きな人と結婚して、子供を産みたい。

 結婚式だって、したい……」

 その小さな肩が震えるほど泣き崩れるまで、俺は依子の何も知らなかった。

 ……結婚式?

 そんな、何で今更……。

「……階段踏み外したのだって、わざとじゃないし。気を付けてたし。病院からも、それが原因とは限らない、自然に流産することは普通によくあるって言われたし。

ずっとコンビニ弁当の生活じゃダメだと思って。ようやく体調良くなったから買い物行っただけなのに。

 なんか、私がまるで駄目な人みたいな。

 いつもそう。私みたいなできない子が嫌いなんでしょ!?

 目障りな癖に。

 子供さえ産めば、それでいいと思ってるくせに」

「それは違う」

 そんな風には思っていない。

 そんな、そんな非道な考えはしていない。

「じゃなんで私にもっと優しくしてくれないんですか!? 好きじゃないから優しくできないんでしょ!? 普通奥さんには、もっと優しいですよ。恋愛感情だって、ありますよ。だけどないでしょ!? 結婚しようって言ったくせに、そんな風に一度も私を見てくれたこと、ないじゃないですか!!」
 
「いや……」

「ないですよ……。少なくとも、私はそんな物を感じたことはありません。

 酷いですよ。結婚しようって言ってくれるんなら、少しは好きになってくれると思うじゃないですか。

 なのに……。

 子供しか見てない」

 胸にぐさりと言葉が刺さった。

 子供しかって……。そんなことない、俺は依子を……。

「今はいいですよ。だけど子供が大きくなったらどうするんですか? 子供なんて20年したら家からいなくなるのに。その時2人になると思うと、私は怖いです」

「……何が」

 何を言われるのか恐ろしかったが聞かずにはいられなかった。

「冷たくされるのが。用ナシになった私のことなんて、どうでも良いと思うに決まってる」

 そんな、そんな……。

「ずっと苦しかったです。ずっと。だから今は……」

 その、少し赤みが差しはじめた頬を見て、俺は先を予感してしまった。

「ほっとしています。私、今は、何も怖くない」
 
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