それでも、課長が好きなんです!
 佑輔君は一呼吸置いてから再び口を開いた。

「さっきの話を繰り返すけど。売れたのは三十代後半。だから長いこと売れない舞台女優しながら色んな仕事掛け持ちして、息子だけはって苦労していい大学まで行かせたらしいよ。女一人の力で」
「苦労して……」
「自分は親に見放されたけど、苦労して育てた息子をあの人は見放せるわけがない」
「……」
「そんな大事に思う息子には普通の幸せだけじゃなくて、自分が結婚した相手の力を使って地位も名誉も手に入れて欲しいんじゃない?」
「え?」
「縁談がどうとか……俺に対するけん制としか思えない」

 佑輔君は相手をあざ笑うかのような笑みを見せた。

「俺が恐いんだろうね。なんか嫌われてるし。親父の実の息子だし? でも俺、サラリーマンとか無理なんですけどー。今時中卒だよ? 笑えるだろ?」
「それはつまり……自分の息子、穂積さんを跡取りにしたいとか……そういった意味でしょうか?」
「壮大な計画だよな。俺のことなんか気にせずどうぞご勝手にって感じなんだけど。同族経営じゃないし、今時さ、親族を跡取りにするなんて考え古い」

 佑輔君はいつもとなんら変わらない様子で語っているけど、わたしは、ダメだ。
 話の中に度々出てくる「息子」が穂積さんを指しているという事実だけで、自分の恋路にどうにもならない高い壁がそびえているように感じて辛い。
 自分は穂積さんには不釣り合いだって嫌だってほど分かっていたのに。
 手を伸ばすなんて、最初から望んでいい人でもなかったのかもしれないって、口に出してそう言ったのに。
 この期に及んでもまだ、わたしは傷つく。

「なぁ、両想いだってわかったのに、なんでそんな暗い顔してんの?」
「……へ?」
「手に届きそうなところまで行ったんだろ?」
「……あ、いや……」
「なんなんだよ、アイツ。千明のこと、今度こそちゃんと振ってくれると思ったのに。期待外れだ。がっかりした」
「で、でも縁談がどうとか言ってたし……わたしなんかじゃ」
「はぁ!? なに弱気になってんだよ、そのくらいで。その程度の気持ちなわけ?」

 わ、分からないな。
 この人、本当にわたしのことが好きなんだろうか……。
 佑輔君は大きなため息を吐くとそのまま口を閉ざした。
 わたしは俯いたまま彼からの視線だけを感じて、互いに無言の状態がしばらく続く。
 居心地が悪くなって、お手洗いに立とうと立ち上がろうとすると手を取られた。

「そうやって、いつまでも自分の気持ちに決着がつけられずにフラフラしてんなら、今ここで千明を俺のものにしてもいい?」

 よく佑輔君の言動には、冗談なのか本気なのか判断に困って惑わされたものだ。
 今も判断に迷いながら、じっと見据えてくる視線から目を逸らせずにいる。
 どきどきとした鼓動に息苦しさを感じるまでに時間はかからなかった。
 この高鳴る胸の鼓動も、切なさが入り混じるこの胸の痛みも、わたしは何度も感じてきた。
 誰かに恋をする度に、感じてきた。
 今は、誰を想って……

「俺、意外とチキンかも」

 繋がった手の力が緩むと同時に、佑輔君が吹き出して笑った。

「今、無理やりにでも千明を押し倒せば自分のものになるって分かってるのに、出来ないや」

 完全に手が離れ、わたしの手が宙に浮いてトンと音を立てて床に落ちる。

「そのうさぎ顔されたら、出来ない」
「うさぎ……」
「アイツの事想って、また泣いてるんだろ」

 はっとして自分の頬に触れてみたけど、涙は流れていない。
 泣いてなんかいない、無言の訴えで立ち上がった佑輔君を見上げると「何度、同じ男に泣かされれば気が済むんだよ」と言って優しい笑顔を見せる。
 今は、本当に泣きそうだ。

「その顔をさせるのも、笑顔にさせるのも……アイツなのかな」

 その言葉を最後に佑輔君は背を向け玄関へと向かった。
 待ってと引き留めてたけど、立ち止まってはくれなかった。
 一人きりになり静まり返った部屋に、エアコンから温風が流れる音がする。
 部屋は温まるどころか、なぜか寒さに凍えて肩が震える。
 『アイツの事想って、また泣いてるんだろ』。
 もう少し、長く一緒に居たら、「違う」と言って彼を引き留めていたかもしれない。
 今はただ、佑輔君の手のぬくもりを思い出して涙が止まらない。 


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