めぐる季節、また君と出逢う
痛くも痒くもない難病は、駿太郎の人生観を変えたといっても過言ではない。たった今の今まで普通に生きてきたのに、自分が知らない内に身体の中で起きていた事はともすると命を脅かすまで身体の中を蝕んでいた。そうして半年もの「休憩時間」を余儀なくされて、一年遅れた学年を送った。そのことは、自分の力ではぜったいに及ばない何かがあるということを駿太郎に教えた。人生において、嬉しいことも楽しいこともあるのと同じように哀しい事も辛いことももあり、充実している時もつまらない時もある。それでも、人は生きていく。食べて、笑って、泣いて、恋をして切なくて、そして、生きるために、生きていく。
恋も、命も、いつか、失くすことがあるとしても、今手にしているものを慈しむ事しかできない。生か死か、恋か夢か、何かと何か、どちらかを失くすと知っていて、どちらかを選ばなければならない時にも、真摯に向き合う事でしかなくしてしまう辛さを乗り越えることはできないと気付いていた。だから、正直に生きていく以外に、自分にできることなんて何もないのだ。
くず折れた羽田の前に膝をついて駿太郎は、伝えよう、伝えたいと思う気持ちをぶつけた。それは「伝えなければ」という思いに限りなく近かった。
「ごめんね、羽田。自分勝手だった…。でも、どうしても、今行かないともう二度と羽田に会えない気がしたから見送りたかった。──正直に言うね。もう、会えなかったら、二度と俺の気持ち、伝えられないでしょ?
羽田、俺ね、今、付き合っている人がいる。大学に入ってから初めて仲良くなった人で、俺のひねくれてた気持ちを溶かしてくれた人。気付いたら好きになってて、向こうも好きだって言ってくれた。でも、正直いつも不安なんだ。あの人は多分もともとはノンケだと思うし、──そうだよ、男の人。──どうして俺の事なんか好きになったんだろうって思うと、なんか騙されているような気がするんだ。
あの人を好きになってから、羽田の事をよく思い出したよ。羽田もこんな気持ちだったかなとか、羽田はどうして俺を好きって言ってくれたんだろなとか。
それで、羽田にまた会えて、すごく嬉しかった。今日も、すごく楽しかった。羽田が俺に触れたいって思っても、俺、嫌じゃないよ。ぜんぜん、嫌じゃない。俺、自分の気持ちが、よく分からないんだ。今、好きな人が居て、その人と、つまり、手をつないだり、えっと…その、つまり…。とにかく、それと同じように、羽田と手をつないだり、羽田が俺に触るならどんな風に触るんだろうって思うし。つまり、それは、もう、友情とは、違うだろ?
本当によく分からないんだ。今付き合っている人の、過去とか、ちょっと見えたことがあって、それで不安になっていて、そんなときに羽田に会ったから、羽田のこと、気になってるのかもしれないし、羽田が俺の事好きって言ってくれたから、羽田の事気になってるだけなのかな。そうかもしれない。もし、羽田がぜんぜんそんな気持ちを俺に見せてくれなかったら、俺だって羽田のことこんなふうに思ったかどうか、分からないんだ。」
でも、「もしも」なんてない。羽田が自分に好きだったと思う、と言った過去は消えないし、友情じゃない、触れたいと言ったのもたった今起きた事実で、もし羽田がその気持ちを伝えてくれなかったら、なんていう「もしも」はない。そして、自分は男として生まれて来たし、羽田も男だし、高科も男で、もしも自分が女だったら、とか、あるいは羽田や高科が女だったらとか、そんな「もしも」もない。
あの時、ほんのちょっとした身体の不調に気付かなかったら自分は死んでいたのかもしれないし、あの時、ほんの少しの間違えた何かがあったら今生きていなかったのかもしれない。ほんとうは、それだけのことではなく、生まれてから今日この日まで、いつ死んでもおかしくないような世界に生きていて今生き延びている、その「奇跡」に気付いてないだけなのだ。そしてやはり、そんな奇跡が起きなかった、という「もしも」はない。
「あのね、羽田、俺ね、さっきの映画の話じゃないけど、明日世界がなくなったり、明日、いや、もしかしたら今夜にでも俺とか、もしかしたら羽田の命が尽きたりすることがあるのかもしれない、っていう『もしも』は否定できないんだ。俺、留年した理由教えた事あったっけ?俺ね、病欠で出席日数が足りなかったんだよ。俺さ、病気して思ったんだ。人間て案外簡単に死ぬんだって。だけどね、俺は、過去とか現在に起きていることの『もしも』はない、と思ってる。だから、もしも羽田が俺を好きになってくれなかったら、とか、もしいまあの人と付き合ってなかったらとか、そういう「もしも」を考えたくないし、それで、明日世界がなくなるなら、俺は、羽田にちゃんと今の気持ちを伝えたい、って思った。そんで、俺、だから…──何言いたいんだろ、俺。」
俯いていた羽田がゆっくりと頭を上げる。目の縁が赤い。今にも涙が湧いてくるような瞳で駿太郎を見詰めた。
「…分かる。何となく。ちゃんと分かってると思う。──平賀の付き合っている人は、多分、その人は、ちゃんと、平賀のこと好きだと思うよ。だから不安になんてならなくていい、と思う。俺がこんなこと言うのも変だけど。でも、それでも、まだ俺にもチャンスがあるなら…少しは考えてくれるなら…」
駿太郎は羽田の頭を撫でた。「ごめんね」という気持ちを込めて。「ありがとう」という気持ちを込めて。自分の気持ちが浮いている。二つに割れて、ひとつはあちらに行こう、と言い、もう一方はこちらに来ようと言う。だから「浮気」と言うのだ、とやけに説得力を持った自分の想いを、できたらちりぢりに破ってやったらいかにすっきりするものだろうかと思う。
「少し、時間くれる?こんな俺でも、いい?迷ったりしてる奴なんだよ?それでも、いい?それでももし羽田のこと選んだら、羽田、それでも俺の事好きって触りたいって思ってくれる?」
「うん。待つよ。平賀がちゃんと答えてくれるまで待つ。迷ったりなんて、別に、そんなのいい。俺の事選んでくれたらいいなって思うけど、それでも、俺、もし平賀が俺の事選んでくれなくても多分好きだから。今も、前も、いつも、触ってみたい。早く次の恋ができたらいいのになって思ってた。今もそう思う。そしたら、平賀のこと迷わせたりしないのにね。ごめん。」
「なんでごめんとか言うの?謝らないといけないのは、俺の方。ごめんね。」
そしてもう一度、明日世界がなくなるなら、と想像する。思い残すことは、あるだろうか?今がとても幸せだと言うわけでもないのに、この満足感は何なのだろう。