空々蝉
長い坂道を登り切った先に見えてくる、小さな木造の平屋。
古ぼけた磨りガラスの引き戸に鍵がかかっていないのはいつものことで、何の躊躇もなしに押し開いて敷居をまたげば、
奥の書斎から顔を覗かせた彼がため息混じりに笑ってみせた。
「いらっしゃい、また来たの」
縁側から朱みがかった空の見える、畳敷きの書斎。いってしまえば、彼の日々の生活空間。
執筆活動のみならず寝食もすべて行われるこの部屋に、今日は無数の原稿用紙がばらまかれている。
「……新作?」
「そう。でもまだ推敲中」
彼は床に散らばった用紙たちから1枚を拾い上げ、書斎へ入ってきたわたしにぺらりと差し出した。
筆圧が薄く、風に吹き飛ばされてしまいそうな走り書き。そんな文字の羅列を受け取り、ゆっくりゆっくり、一言一句を捕まえていく。