芸術的なカレシ
一人、アパートへと入っていく拓。
誰かと待ち合わせている様子はない。
スマホのチェックをしている感じでもないし。
……やっぱり、私の思い過ごしだ。
紅と逢い引きしてるだなんて。
今は気持ちが不安定で、何でも悪い方に考えてしまうのだ。
だいたい、拓が浮気だなんて、馬鹿げてる。
今までだって、疑惑はあっても実際に浮気したことはなかった。
少なくとも、私の知る限りでは。
「はああ……」
電信柱の陰に隠れていた私は、安堵の大きな溜め息を吐く。
何をやってるんだろう。
これじゃあまるで、ストーカーだ。
それとも下手な探偵か?
そう自嘲して踵を返そうとした時、私は通りの先に赤い自転車がこちらに向かって来るのを見つけた。
私がいる所とは反対側から、近付いてくる。
目を凝らしてみた。
紅色の、ワンピースが見える。
黒いタイツに、黒いブーツ。
それから、ショートカットに、そこから除く、個性的な蛍光色のイヤリング。
「……紅?」
そう、まさかの、彼女。
紅の姿が、あった。
赤い自転車は、やっぱりと言うべきか、拓のアパートの前で止まる。
それから紅は、慣れた手付きで階段の下に自転車を移動させた。
拓の黒い自転車と紅の赤い自転車が、仲良く並ぶ。
まさに、いつも。
ここにこうして置くことが、決まっているみたいに。
私がこのアパートへ通っていた頃も、私の自転車はあそこに止めるのが決まりだった。
私の、クリーム色の小さな自転車。
……けれど、今は違う。
真っ赤な自転車が、私の居場所を押し退けていく。