芸術的なカレシ
駅を降りて、私は駆け出した。
自分勝手なのは分かっている。
けれど今、この感情に流されてしまわなければ、このまま私達は意地を張って別れてしまうような気がする。
30才は難しいお年頃。
プライドも見栄も、それなりに大切に育ててきた。
それを捨てるのには、相応の勇気、または同等の勢いと、絶妙なタイミングが必要なのだ。
12月間近の風は、私の頬を凍らせるほど冷たかったけれど。
そんなことも全く気にならないほどに、私の気持ちは昂っていた。
今会いたい。
今したい。
そういうことの繰り返しで、繋がっていけばいいのだと、今は素直にそう思える。
拓のアパートの屋根が見えてきた。
ドキドキする胸。
走っているせいかもしれないけれど、体全部が心臓になってしまったみたいに、高揚している。
あの角を曲がればすぐだ。
すぐに、大好きな拓に会える。
……けれど。
タン。
私の足は、角を曲がってすぐに、進むのを止めてしまった。
ハイカットのコンバースが、冷たいコンクリートの上で静止する。
……ああ。
どうして、ここに来るまで気が付かなかったのだろう。
拓のアパートの自転車置き場に。
赤い自転車が止まっているかもしれないという、可能性のことを。