この愛、買いですか?
 娘が十六の時でございました。
 酒の酔いも手伝って、妻に手をあげてしまいました。些細なことからの口喧嘩の末のことでございました。生まれてこの方、そのような経験のない妻にとっては、ショックでございましたでしょう。
 眼をカッと見開いて、口をパクパクさせておりましたです、はい。クク……まるで陸に上がった魚でございました。思わず吹き出してしまいました。と、怒ること怒ること。
「あ、あなた! あんまりです。あ、あたしが一体なにをしたと言うんです! 手を上げられるなんて、あ、あたし、信じられません。そりゃあ、少し帰りが遅くなりはしました。お客様をお待たせしてしまったことは、悪いと思っております。でも機嫌良くお帰りになったじゃありませんか。信じられません、あたし」
“俺をこけにして! あの男の娘なんだろうが!”
 と、心の内では叫んでおりました。

 どうして実の娘ではないと思うのか? とお尋ねですか。お話ししていませんでしたか、失礼いたしました。親の口から申すのも何でございますが、実に頭の良い娘でして、常に学年で主席の成績でございました。器量に致しましても、わたしに似ず評判の娘でございます。
 お分かりでしょうか? わたしとは似ても似つかぬ娘なのでございます。まぁ確かに、妻に似てはおります。唯、大木さまのお話では、あの同棲相手の男の面影があるとのこと。
 そう考えれば、全く納得のいくことでございましょう。全く不釣り合いなわたしのような者に嫁ぐなどということが。娘のおらぬ所でそのことを詰りましたのが、このお話の、ある意味では発端でございます。

 もちろん、妻は否定いたします。
 しかし、否定されればされるほど疑念の心は確信に変わっていったのでございます。そして嫁ぐことを決意した理由が、「あなたへの恩返しのつもりだった」と聞かされた折りには、やはりという気持ちになりましてございます。
 そうでございましょう? 恩返しなどとお為ごかしなことを、いけしゃあしゃあと言うのでございますから。奉公中のわたしに対する態度を思いますれば、とてものことに信じられぬ言葉でごさいます。
 毎日のように背におぶってあやし申し上げたわたしに対して「お前の背は臭かったわ!」などと、女学校のご級友の前での罵詈雑言。聞かれたご級友の、かばい立てがなかったら……。
 そして又、何ゆえに手までお上げになられるのか。しかもお手ではなく、さも汚らわしいものに触れでもされるように箒を持ち出してのこと。忘れてはいませんぞ。

「正夫さん、本心からではないのですよ。あの年頃というのはね、心持ちとは逆のことを口にしたりするものですよ」
 大木さまからの優しいお声かけがありましても、わたしには到底信じがたいことでございます。あの蔑みの目は、わたしの脳裏から未だに消えておりません。うっすらと浮かんでいた涙とて、そこまでお嫌いなのかと情けなくさえ思えたものでございます。
「お前さんは忘れたと仰るのですか! 女学生時代の、あの仕打ちを」
「女学生時代は…、あの頃のことは……。今になってそれを詰られても…。確かに、あの時のあたしはどうかしていました。悪うございました。でも、心の中では、手を合わせていたのですよ。涙をこぼしながらの、仕打ちだったのですから」
「ふん! 分かったものですか。あとからならば、何とでも言えますでしょう。いくらでも言い訳できまするぞ。そんなことより、わたしが許せないのは……許せないのは、嘘をつかれたことです!」
「何ですの、嘘って。あたしは、嘘を吐いたことなどありませんよ」

「しらばっくれるんじゃありませんぞ! 妙、妙子は、一体誰の子なんです! わたしの娘だとは仰らないでください。ふん、わたしは知っておりますから。あの国賊の娘なんでしょうが!」
「な、なんてことを! あなた、気は確かですの? 呆れたお人ですわね。言うに事欠いて、先生の娘だなんて。正真正銘、あなたの娘じゃありませんか」
 しかしどうしても認めませんのです。厚顔無恥でございますよ。まったく人倫にもとる妻でございます。多少の嘘は良しとしても、この嘘だけは許せません。いえ、正直に話してくれさえすれば、わたしだって鬼ではありません。ありませんし、妙子も可愛い娘でございます。妻が、正直に認めて、わたしに謝ってさえくれれば…。
結果、わたしたち夫婦の家庭内別居が始まったのでございます。

 食事の支度こそしてくれますが、わたし一人のわびしい食卓でした。以前も確かにひとり食事ではございましたが、あれこれと世話を焼いてくれておりましたのに。まあ確かに、妻に告げることなく、朝を一時間ほど早めは致しましたが。膨れっ面など、見たくもありませんですから。それに顔を見るとつい「あの男が今でも忘れられませんでしょうな」等々、口に出してしまいそうでございます。
 当初こそ否定していた妻ですが、程なく口を利かなくなりました。認めたも同然でございます。いえ実は、認めたのでございます。
「はいはい。そういうことにしておいてくださいな、馬鹿々々しい」
「そらみろ、やっぱりじゃないか!」
 そそくさとわたしの前から離れる妻を追いかけるのですが、だんまりでございます。

 店の手伝いでごさいますか? えぇまぁ、表で頑張ってはおります。いつものようにお客さまに愛想を振りまいておりますです。裏で仕込みを続けるわたしのもとにまで聞こえてまいります。わざと大声を張り上げているのでございますよ。
 確かに、以前も大声でした。その明るい声にわたしの疲れも吹き飛ぶというものです。世間話の上手な妻でございまして、よくお客さまを笑わせております。その笑い声は、お客さまに安心感を与えますようで。
「奥さんと話していると、浮世の憂さがぱあーっとどこかに行ってしまうわ」
 そんなお言葉を、ちょくちょく頂いております。
 そんな頃に、お饅頭類だけでは先細りになりはしないかと考えまして、妻の反対を押し切って醤油煎餅を作ってみたのでございます。しかしお客さまのお口に合わなかったようでして。いえいえ、きっと買ってくださるはずでした。

 そしてある夕暮れどきでございました、初めて売れましてございます。思わず小躍りしてしまうほどでした。
「あなたには負けたわ。それじゃその、新しく作られたお煎餅を頂こうかしら」
 妻の押し付けがましさは我慢なりませんです、はい。
きっと売れるはずなのでございます。それが証拠に「美味しかったわよ、又頂くわ」と仰って頂けるお客さまが、日に日に増えているのでございますから。
「奥さんの太鼓判ですもの、美味しいはずよね」
 などと、お客さまにおべっかを遣わせるとは、まったく不届き千万でございます。
 それにしても厭味な妻でございます。今日も今日とて、これみよがしに大声を張り上げているのでございますから。
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