この愛、買いですか?
(六) 嬉々とした表情で
 翌日、娘は嬉々とした表情で出かけていきました。わたくしは作業場にこもりっきりでございます。
 妻でございますか? はてさて、女と言うものはまったく理解に苦しみますですよ。あれ程に反対しておりましたのに、何やかやと世話を焼いております。腹痛の薬だ、かぶれの薬だ、と。
 それにしても娘の居ない日々は、やはり地獄でした。
針のむしろの日々でごさいました。毎夜、妻に嫌みを言われ続けたのでございます。

「あなた、外でお食べにならないでくださいな。栄養が偏りますよ。あなたは、人一倍栄養には気をつけなくちゃいけないんですから」
 などと、それはもう口やかましく言うのですよ。
 わたしが言い返さないことを良いことに、それはもう大げさに騒ぎ立てて。ま確かに、体を壊したのは確かでございます。おかげで軍隊も…。
 しかしですぞ、もう十分に良くなっておりますよ。あの日までは妻の手料理を食べておりましたですから。滋養のある物をと、わたしに用意してくれたことは忘れておりません。そのお陰で、こうやって今まで頑張ってこられたのでございますから。

 娘からは、合宿の初日から電話が入りましてございます。
「着いたよー、感激だわ。お父さん、ありがとうね」
 先日の娘の喜びようが、私の五感によみがえります。娘に抱きつかれてもんどり打って倒れた折の、あの感触が五感全てによみがえります。そのままごろごろと畳の上を…。あ、お忘れください、お忘れください、どうぞお忘れを。
 わたしのかたわらでせっつきますので、妻と代わりましてございます。夜叉の如き顔が一変いたします。菩薩さまのようにたっぷりの笑みをたたえて、娘と話しております。空気が澄んだ所で、満天に星が輝いていたと申しておりますようで。娘が私にも聞こえるようにと、ひときわ大きな声で話してくれております。
 しかしあまりに喜びに満ち溢れた声に、次第次第に腹が立ってきました。妻との会話が長いせいではございません。わたしには言ってくれた『ありがとう』を、妻には言いませんのですから。
 腹立ちの訳は、別のことでございます。わたしの元よりも良い所があるなど、到底考えられません。あってはならぬことなのでございますよ。

 二日目、三日目と電話がかかります。夜の八時でございます、お客さまからの電話であろう筈がございません。すぐさまわたしが受話器を取ります。妻のふくれた顔など、知ったことか! でございますよ。
「お父さん? 元気してる? お母さんは? 代わって」
 と、もう矢継ぎ早でございます。わたしと話せることがよほどに嬉しいのか、息せき切って言いますです。
 わたしのかたわらには妻が来ております。腹立たしいことには、受話器を引ったくるのでございます。それにしても、どうして女どもは長話が好きなのでございますかな。何をそんなに話すことがあるのでございましょうか、まったく。
 四日目のことでございます。娘が、突然帰ってまいりました。
 思いつめた表情で、ただいまのひと言もございません。さっさと二階の自室に閉じこもったのでございます。そして日がな一日泣きじゃくるのでございますわけを問いただしても、唯々泣きじゃくるばかりでございます。

 娘の顔を見たいと願うわたしめですが、何度声をかけても「放っといて! お父さんも嫌いよ!」という返事。
 もう涙がでてまいります。その点、女は冷たいものでございます。素知らぬ顔をしております。
「今は、何を言っても無駄ですよ」
 と、取り合いません。お友達と喧嘩でもしたのでしょ、と言うのです。しかし不思議なもので、そのように言われますとそんな気がしてくるのでございます。
 ところが、事はそんな生易しい事態ではございませんでした。娘を追いかけるように顧問の先生が見えたのでございます。畳に頭をこすり付けての謝罪でございます。「申し訳ございません、申し訳ございません」と、唯々謝られるだけでございます。
 わたくし、気が気でなりません。妻ですか? さすがに妻も、顔を曇らせております。いえ、曇らせるどころではありません。見る見る顔が紅潮して、怒鳴りつけましてございます。

「何があったのか、話してください!」
「実は…夜の散歩に、二人で出かけたらしいのです。いえ、あたくし、承知しておりません。どころか、禁じていました湖のほとりに、月を観に行ったとか。幻想的だと他の者が申したらしく、それで……その…暴漢が現れまして…」
「何ですって! 暴漢って、せんせ、そ、それは!」
 さすがに妻も言葉を失いましたでございます。
 しかしすぐに「夜はどのように? 先生は見回りとかは? まあ年頃の娘ですからね、そこは、ねえ」と、言葉をつなぎましたです。
「当日の注意点の整理ですとか、翌日の練習メニューですとか、そういったことを…」
「要するに、生徒さんたちの自主性に任せていた、と言うことですね?」
「そ、その通りでございます。生徒達の自主性に任せておりました」

 穏やかな妻の質問に対して少々おびえ気味に答えられる先生でしたが、罠にはまってしまったのでございます。女郎ぐもに囚われた蝶でございました。
「先生! 二十歳前の小娘たちですよ! 分別などあるわけがないでしょうに! 自主性などとおためごかしはお止めくださいな!」
「申し訳ございません、申し訳ございません。けれども、妙子さんの純潔は守られてございます。その点は大丈夫でございます。手足に多少の擦り傷がございましたが、衣服の乱れもございませんでしたし…」
 しかしそんな先生のお話を、妻ははなから信じておりません。医者の診察を受けてからだと、大仰に騒ぎ立てます。
 どうやら仲の良い友達と夜の散歩中に、複数の男達に襲われたようでございます。幸いにもご友人がうまく逃げだして、助けを求めたとの事。未遂に終わったとはいえ、そのショックは大きく、失意の中立ち戻ってきたのでございます。

 しかし妻は、はなから犯されたものと決めつけて、あろうことか娘を非難致します。やれ医者だ、警察に訴える、と大騒ぎして、娘の純真な心を傷つけるのでございます。わたしは、あまりの妻の狂乱ぶりに呆気にとられておりました。
「やめてよ、お母さん! あたし強姦などされてないんだから」
 と妙子が飛び出して参りました。
「妙子もああ言ってることですし、騒ぎを大きくしなくても」
「あなたは黙っててください! とに角、診てもらいます。妙子、行きますよ!」
 それはもう恐ろしいほどの剣幕でございました。わたくしの話など聞く筈もございませんわな、血のつながらぬわたしの話など。

 が、何とか妻をなだめて、その騒ぎを治めました。もちろんわたしにしても、はらわたの煮えくりかえる思いではございました。が、娘の将来のことを考えて、この騒ぎはそれで終わりにしたのでございます。
 どれほどの時間が経ちましたか、二人が明るく談笑しながら帰ってまいりました折には、わたし、へなへなとその場に座り込んでしまいました。
「だから言ったでしょ、お母さん。少しは娘を信用してよ」
「信用するしないじゃありません。こういうことは、念には念をいれなきゃだめなの。後々にとんでもない病気が出ないとも限らないんだから。でも何にしても幸いだったわ。いいこと! これからはだめですからね。お母さんの許可がない限り」

 肩をすぼめて、舌を出す娘でございます。あぁその桜色の舌、なんとなまめかしいことか。その舌で、わたしのこの淋しき唇をなぐさめてほしいもの…いえ、お忘れください、今の言葉はお忘れください。
 しかし妻とわたしの間に、このことにより埋めようのない亀裂が生じてしまったことは、改めて申すまでもございますまい。妻の口汚いののしりを一晩中聞かされました。が、わたしの耳には届いておりません。唯々、娘のことばかりを考えておりました。成熟し始めた娘の体つきや細やかな仕草。それらに歓喜の情にふるえていた折りでもあり、唯々聞き入っておりました。半狂乱の妻の罵倒は、夜明けまで続きましたのでございます。

 正直に申し上げましょう。それ以来しばらくの間、毎夜の如く悪夢に悩まされました。
 林の中を逃げ回る娘。追いかけまわす数人の男ども。右に左にと逃げ回る娘に、三方四方から男共が迫るのでございます。娘の足はすり傷だらけになり、赤い血がにじんでおります。
 木々の枝にブラウスが破られ、次第に白い柔肌があらわになっていくのでございます。男どもは、そんな娘のあらわになっていく肌に、より凶暴になっていきますです。とうとう一人の男に掴まり、落ち葉の上に押し倒されてしまいます。

「いや、いやあぁ!」
 そんな娘の叫び声は、男共の劣情をそそらずにはいません。
「やめて、やめてえ!」
 娘の懇願の声も、男共の嬌声にかき消されてしまいます。いえ、娘の懇願の声が、更に男共の凶暴さに火を点けるのでございます。
 何ということでしようか。が、わたしの娘が……。
 男どもにりょうじょくされているのでございます。泥で汚れた手が、ごつごつとした手が、娘の漆黒の髪をつかんでおります。気も狂わんばかりでございます。
「待てっ! 待てっ! 待ってくれ! それだけは、止めてくれ。今までのことは、許そう、水に流そう。後生だから、それだけは、それだけは、止めてくれえい!」

 断じて許すことはできません。八つ裂きにしても足りない男共でございます。もう私には気力がございません。お話しする気力が、ございません。
 もう、このまま死にたい思いでございます。まさしく地獄でございます。
 地獄? そう、地獄はこれからでございました。
 実は不思議なことに、男どもには顔がなかったのでございます。もちろん、その男どもをわたくしは知りません、見たことがありません。だから顔がない、そうも思えるのではございます。
 しかし、……そうですか、お気づきですか? ご聡明なあなたさまは、全てお見通しでございますか……。

 申し訳ありません! 申し訳ありません! わたしは、犬畜生にも劣る人間でございます。殺してください、わたしをこの場で殺してください。この大罪人の、人非人を! そうなんでございます、男どもは、全て、わたしの顔を持っていたのでございます。
 わたしの顔を……持っていたのでございます。
 蝿が飛んでおります、銀蝿でございます。あの野ぐそにたかる、汚わらしい銀蝿でございます。
 ぷーんぷーんと音もうるさく、飛び交っております。死人にも似たわたくしめの周りを、飛び交っております。手で払いのけるのでございますが、中々に立ち去ろうと致しません。立ち去らない? 虫けらに立ち去らないなどという言葉を使うとは。ふふふ、気が狂(ふ)れたのかもしれませんな。
 実は、実は…その銀蝿…どうぞ耳をふさいでくださいまし、後生でございますから。おぞましいことに、このわたしめの顔を持っているのでございます。何と、何と言うことか、このわたしが、銀蝿などと!
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