背中越しの春だった
プロローグ
藤。
あんたの名前は、今でも私の胸の一番深いところに、
鮮やかにきざまれたままだよ。
それは、私が最後に見た藤の姿。
轟々と降り注ぐ桜吹雪の中、濡れたような漆黒の髪を吹きすさぶ風に遊ばせて、
ほんのわずかに微笑んで、藤はくるりと私に背を向けた。
薄く桃色に染まった雲にかすむ水色の空を背景に、
白いセーターは小柄な彼には少し大きく見え、
太いベルトにはジャラジャラとチェーンがぶら下がっている。
見慣れたその細い体が、空へ還る天女のように儚く、
静かに、人ごみの中に消えていく。
私は甘い春の香気を、大きく吸い込む。
今でもはっきりと、焼き付けたばかりのフィルムのようにあざやかに、
あの白い光景と甘い香りがよみがえるのだ。
光の中に消えていった藤の、あの美しく頼りない背中を、私は一生忘れない。
思えば私は、藤の背中ばかり見ていた気がする。