背中越しの春だった
5、恋しては、いけない
ぬるくなってしまったコーヒーを手に教室に戻ると、藤はもういつもの笑顔だった。


シャツの袖で顔を拭ったのだろう、かなりびっしょり濡れてしまっている。

だけどそんなことは全く気にならない様子で、藤は友人に囲まれてケラケラ無邪気な笑い声をあげていた。

私はホッとしつつも、あの冷たい表情が、頭にこびりついて離れなかった。



席に戻ると、隣の机を借りてお弁当を食べていた美雪が、不思議そうに顔を上げる。


「依子ちゃん、ずいぶん遅かったね。どうしたの?」

「いや……ちょっとね」

「てか、藤どうしたんだろ。びしょ濡れで超かわいいんだけど」


美雪がくすっと笑う。


ふと、思った。

藤を好きになることは、なんていうかすごく不毛で……すごく、危険なことかもしれない。



そのとき、派手な音を立てて教室のドアが開き、山本一平が飛び込んできた。

そして驚くB組の生徒たちをかきわけて一直線に藤の元に向かい、手にしていた大きなバスタオルを藤の頭にかぶせた。


「いきなりなんだよ、山本」


びっくりしたじゃん、と男子たちに言われて、山本はちょっと肩をすくめて見せる。


「ハルが水かぶってんのが見えたから、保健室から取ってきた」


そして有無を言わさず、ガシガシ藤の頭を拭き始める。


「春先にはすぐカゼひくんだから、オマエは。気をつけろよ」


慣れた手つきで藤を扱う山本を、保護者みたいだな、と友人たちがからかう。


「ほんと。ウザイ」


タオルをかぶったまま藤がそっけなく言い、私は思わずビクッと反応してしまった。

またあの冷たい顔をしているんじゃないか、と……胸騒ぎがしたのだ。


しかし山本は、まるで平気な顔をしていた。


「こいつがカゼひいたら、俺にうつるだろ。こいつは俺の自衛範囲内なの」


藤の手が、タオルを払った。

そこには、黒い瞳を明るく輝かせた、心からの笑顔があった。


「なにそれ。うっとおしい」


言葉とは裏腹な表情に、私は思わず見とれてしまった。


この笑顔が、やっぱり藤なんだと思う。そう、思いたい。
けど……。


わからない。藤は何を考えているのだろう?
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