弓を張る月
「あ~、だったっけ?」
 まるで興味が無いとばかりに気の無い返事をする秀一郎。「あぁ、コイツってば、こんな奴なんだよなぁ……」と絵梨子は、『民俗学研究』の5月号を読み耽り始めた秀一郎の横顔を眺めながら、心の中で呟いていた。
 良くも悪くも、浮世離れしている秀一郎の面目躍如といった所であった。
 ガチャリと研究室のドアが開き、颯爽とスーツ姿の女性が入ってきた。小柄ながら、シャキシャキした身のこなしで、短めの黒髪をピンでキッチリと纏めたその女性は、いかにも仕事の出来そうな雰囲気があった。
「あら、来てたの?」
 彼女は室内にいた二人を確認すると、意外そうな声で話し掛けて来た。
「今週は、塚熊センセイお休みよ」
「はい、聞いてます。今日は教授に言われてた、次回論文の為の資料整理で……」
 絵梨子の説明をスグに理解した彼女は続けざまに返事を返した。
「『現代通過儀礼考』の資料ね。うん、センセイから聞いてる。私も手伝うから、センセイが帰って来るまでに、ある程度、まとめ上げてしまいましょう」
「えっ、あっ、あの、神田さんが手伝って下さるんですか?!」
「ええ。頑張りましょ」
 神田と呼ばれたその女性は笑顔で答えた。

 神田流瑠。塚熊ゼミに出入りするメンバーの中では唯一の院生である彼女は、塚熊教授もお気に入りの才媛である。何しろ塚熊教授が彼女と秀一郎の二人を自身のゼミに参加させている事をかなり自慢にしているのは、学内に於いて知らぬ者のいない周知の事実である程だ。
 しかしながら神田は、その切れすぎる知性に加えて、歯に衣を着せぬ言動の為、一部の学生や教授連から恐れられ、煙たがれている存在でもあった。絵梨子が、論文作成の為の資料整理を手伝ってくれるという神田に対し、少し口ごもって尻込みしてしまったのは、単に尊敬する彼女と共同で作業出来るから恐縮してしまったというだけでなく、彼女のそんな一面を知っているからでもあった。
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