弓を張る月
「そういえば、アナタ達、聞いてる?」
 神田は二人が座っているテーブルの向かい側の椅子に腰掛けると二人に向かって言葉を掛けた。秀一郎は相変わらず『民俗学研究』5月号を読み耽っている。絵梨子は、神田に対して、あまりにも素っ気無い秀一郎の失礼な態度に、いつ神田の癇癪が爆発するかもしれないと内心ヒヤヒヤしていたが、当の神田は、秀一郎に自分の弟の様な感情を抱いている様で、彼に極めて寛容な所があった。
「何がですか?」
 絵梨子が神田に質問で返す。とりあえず、作業途中のノートパソコンが邪魔で向かいに座る神田の顔が見えない為、絵梨子はパタンとそれを閉じて、神田の返事を待った。神田は自分のバックから取り出したマイルドセブンに火を付け、スッと一口だけ味わうと少し声のトーンを落として話を切り出した。
「うん。実は3年生の北神刹那クンの話なんだけどね。彼、大学を辞めちゃうらしいのよ……」
 神田のこの一言は少しだけ部屋の空気を変えた。北神の名前に反応した秀一郎も、その後に続いた大学を辞めるという言葉が耳に入ると、今の今まで周囲に何の反応も示さず読み耽っていた『民俗学研究』5月号を閉じ、神田の方に顔を向けた。
「南クンは北神クンと親しかったわよね? 何か聞いてた?」
 神田は何気無く秀一郎に尋ねた。少し間を置いて、質問した神田の視線を避けるかの様に、再び『民俗学研究』5月号に目を落とした秀一郎が、蚊の鳴く様な声で答えた。
「いや、聞いてません」
「……そう」
 神田は秀一郎のその答えを聞くと、まるで落胆したかの様に二口目の煙草の煙と共に
一言だけ呟いた。
「北神さん、何で大学辞めちゃうんですか?」
 絵梨子が口を挟む。神田は天井に向けて煙を吐き出すと、中空を見詰めたまま絵梨子の質問に答えた。
「それが、私も小耳に挟んだだけだから、詳しい事はワカんないのよ。塚熊センセは詳しい事情を聞いてるかもしれないけど、今、岩手だしね……」
 研究室に何やら、真っ白い空気が流れた。誰も口を利かぬまま、壁に掛けられた時計の秒針だけが、カチカチと一定のリズムを響かせていた。しかしどうにも、その空気に耐えられず絵梨子が口を開いた。
「そういえば、北神さんと秀一郎って、仲イイよね。何で?」
< 11 / 15 >

この作品をシェア

pagetop