弓を張る月
「アタシ、研究室に顔出してくから」
 クルリと踵を返すと、膝を着き悶絶している秀一郎のコトなど全く気にする様子もなく、右手をヒラヒラと振りながら、足早に絵梨子は去っていった。
 予想外に大ダメージを与えられた秀一郎は、しばらく身動き一つ出来無い有様であったが、さすがにキャンパスの真ん中で悶絶したまま蹲っているのは恥ずかしい。秀一郎はまだ痛みの残る肝臓の辺りを擦りながらノソノソと立ち上がると、いつも彼が休憩場所にしているソテツの植え込みの所まで移動し、そこの芝生に腰を下ろした。されど未だにボディーブローのダメージは癒えない……。
 ポケットから少し潰れかかったマルボロ・メンソールの箱を取り出すと、徐に抜き出した一本を口へ運び火を点けた。
 秀一郎はダルそうな目を伏せると、深くその煙を吸い込み、肺に送り込んだ。
「絵梨ちゃん、イイもの持ってんなぁ~」
 呟きと共に吐き出された紫色の乾いた煙がゆっくりと天に上り、やがて空に溶けていった。
 秀一郎は、重い瞼を閉じると眠りにつこうとした。昨晩はPCと向かい合ったまま一睡もしていない。
「意外と、体力使っちゃったしねぇ……」
 再び呟きと共に煙を吐き出す。こうして、仰向けになり、目を閉じて煙草を吹かしていると、不思議なコトに学内の喧騒が消えていく。自分が完全に無に帰する様に感じる。秀一郎は、このカンジが好きだった。
「ふぁ~あ~」
 欠伸が出る。「このままココでしばらく眠ろう……」秀一郎の身体が、そう、頭に信号を送っている様であった。
 午後の陽射しの中、秀一郎の頬を撫でていく風。秀一郎の指定席となっているソテツの木陰……。
「暑いっ!」
 初夏の屋外は侮れなかった。今年最高を記録した今日の気温は秀一郎の睡魔を平気な顔で打ち破る程の破壊力を持っていた。
「お、俺も研究室に顔出してこよ……」
 フラフラと力無く立ち上がると、秀一郎は研究室のある西棟1号館に向かって歩き出した。
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