眼
眼
君は忘れていないだろうか、
子供のころ、
この道を通るのがひどく怖かったこと。
ほんの子供だった時分の事だ。
大人が何とも思わぬようなものが怖いなど、
良くある話なので、
何も恥じる事は無い。
それに、その道を怖いと感じていたのは
君だけでは無い。
子供なら誰でも、あの道を怖がった。
大きな農家の前を横切る細い私道。
もう何十年も敷きっぱなしの
劣化が進んだアスファルトは、
あちこちがはがれて
砂利道に戻りつつある。
おまけに農家の向かいは藪になっていて、
その下草の間には
深い闇がいつでもわだかまっている。
それがあふれて漂ったかのように、
この道は昼でも薄暗い。
なんと言っても恐ろしいのは、
農家の庭先に植わった大きな楠だ。
幹まわりは、
大人になった今の君でも抱え切れないほど
太い。
それが精一杯に枝を張り出して
道に覆いかぶさろうとしているのだから、
ますます暗い。
ひび割れた幹もようを伝って
梢へと視線をあげれば、
冬でも濃緑を失わない葉が
天深くまで繁って、
なお暗い。
子供たちは想像力が豊かだ。
君はこの木についていくつもの噂を聞いた。
この木がまだ小さいころ、
夜盗に切り捨てられた娘がいたと。
その死体は木の下に、
刀傷は伸び切った梢に残っているのだと。
また、気狂いがここで首をくくり、
その幽霊が出るのだという噂もあった。
いずれにしても
この木が子供たちの恐怖の象徴であることに
かわりは無かろう。
だから小さいころの君は、この道が怖かった。
特に遊びすぎて帰りが遅くなった日など、
息を止めて一気に駆け抜けるほどに
この木が怖かった。
君だけは、
この木に何かがいる事を勘づいていたのだ。
それの姿を見た事は無い。
だが、確かに居る。
木の下に立つと、
首の後ろ辺りに不快なものを感じる。
視線だ。
身動き一つしないで、
呼吸すら殺して、
だが、視線だけは油断無く
君を付け回すように、
誰かがこちらを見ている。
そういうときに限って風が吹く。
枝の間をビョウビョウと吹き抜け、
ザワザワと葉っぱを揺らす。
だから、子供のころの君は
この木の梢を見上げた事が無かった。
今の君は立派な大人だ。
子供のころよりは怖いものも減った。
だから久しぶりに通ったこの道で、
あの木の梢を確かめてみようなどと思ったのだ。
あらためて見やれば、
それはとても立派な木であった。
どれほどの樹齢があるのだろう。
ずんぐりと太い幹の一部は朽ち崩れ、
ぽっかりと大穴があいているが、
それですら許容である堂々っぷりは悠久。
君は、割れた幹肌の砕片をたどりながら、
その木を仰ぎ見る。
やはり、大きな木だ。
太い枝の交点に闇色が貼りついている。
わっさりと繁った葉が日の光を遮り、
さらに色濃い闇を枝元に与えていた。
その闇の奥底を確かめようと、君は目を凝らす。
そこにあったのは
視線。
確かにはっきりと感じた。
こちら側を見ている
『何か』の瞳の奥を、
君は覗きこんでしまった。
それはどの闇よりも暗く、
頂が見えないほど繁った葉の奥よりも
遥かに深かった。
枝の間を探すが、何者の姿も無い。
ただ、瞳の表面は
いまだにその気配を感じている。
視線。
ぞわり、
と背筋に悪寒が這い登った。
足の親指が
冷えているのを感じる。
風が吹いた。
強い風だ。
枝の間でビョウビョウと音が鳴り、
ザワザワと葉っぱが揺すられる。
それでも君は、
枝間から降る眼の気配に射すくめられて、
ただ立ち尽くしていた。
子供のころ、
この道を通るのがひどく怖かったこと。
ほんの子供だった時分の事だ。
大人が何とも思わぬようなものが怖いなど、
良くある話なので、
何も恥じる事は無い。
それに、その道を怖いと感じていたのは
君だけでは無い。
子供なら誰でも、あの道を怖がった。
大きな農家の前を横切る細い私道。
もう何十年も敷きっぱなしの
劣化が進んだアスファルトは、
あちこちがはがれて
砂利道に戻りつつある。
おまけに農家の向かいは藪になっていて、
その下草の間には
深い闇がいつでもわだかまっている。
それがあふれて漂ったかのように、
この道は昼でも薄暗い。
なんと言っても恐ろしいのは、
農家の庭先に植わった大きな楠だ。
幹まわりは、
大人になった今の君でも抱え切れないほど
太い。
それが精一杯に枝を張り出して
道に覆いかぶさろうとしているのだから、
ますます暗い。
ひび割れた幹もようを伝って
梢へと視線をあげれば、
冬でも濃緑を失わない葉が
天深くまで繁って、
なお暗い。
子供たちは想像力が豊かだ。
君はこの木についていくつもの噂を聞いた。
この木がまだ小さいころ、
夜盗に切り捨てられた娘がいたと。
その死体は木の下に、
刀傷は伸び切った梢に残っているのだと。
また、気狂いがここで首をくくり、
その幽霊が出るのだという噂もあった。
いずれにしても
この木が子供たちの恐怖の象徴であることに
かわりは無かろう。
だから小さいころの君は、この道が怖かった。
特に遊びすぎて帰りが遅くなった日など、
息を止めて一気に駆け抜けるほどに
この木が怖かった。
君だけは、
この木に何かがいる事を勘づいていたのだ。
それの姿を見た事は無い。
だが、確かに居る。
木の下に立つと、
首の後ろ辺りに不快なものを感じる。
視線だ。
身動き一つしないで、
呼吸すら殺して、
だが、視線だけは油断無く
君を付け回すように、
誰かがこちらを見ている。
そういうときに限って風が吹く。
枝の間をビョウビョウと吹き抜け、
ザワザワと葉っぱを揺らす。
だから、子供のころの君は
この木の梢を見上げた事が無かった。
今の君は立派な大人だ。
子供のころよりは怖いものも減った。
だから久しぶりに通ったこの道で、
あの木の梢を確かめてみようなどと思ったのだ。
あらためて見やれば、
それはとても立派な木であった。
どれほどの樹齢があるのだろう。
ずんぐりと太い幹の一部は朽ち崩れ、
ぽっかりと大穴があいているが、
それですら許容である堂々っぷりは悠久。
君は、割れた幹肌の砕片をたどりながら、
その木を仰ぎ見る。
やはり、大きな木だ。
太い枝の交点に闇色が貼りついている。
わっさりと繁った葉が日の光を遮り、
さらに色濃い闇を枝元に与えていた。
その闇の奥底を確かめようと、君は目を凝らす。
そこにあったのは
視線。
確かにはっきりと感じた。
こちら側を見ている
『何か』の瞳の奥を、
君は覗きこんでしまった。
それはどの闇よりも暗く、
頂が見えないほど繁った葉の奥よりも
遥かに深かった。
枝の間を探すが、何者の姿も無い。
ただ、瞳の表面は
いまだにその気配を感じている。
視線。
ぞわり、
と背筋に悪寒が這い登った。
足の親指が
冷えているのを感じる。
風が吹いた。
強い風だ。
枝の間でビョウビョウと音が鳴り、
ザワザワと葉っぱが揺すられる。
それでも君は、
枝間から降る眼の気配に射すくめられて、
ただ立ち尽くしていた。