ムサシ・ひとり
そして昨夜のこと。初めて朱美が、小次郎の為に涙した。

「小次郎さま。朱美は嬉しゅうございます。
やっとやっと、小次郎さまから解放されるのでございますから。

あのムサシという男、鬼神との噂。
いかな小次郎さまにても叶わぬとの、もっぱらの噂でございます。

でも、哀しゅうもございます。ムサシという男、情け容赦なき者とか。
試合った相手は、ことごとくにこの世を去られているとか。

お願いでございます、小次郎さま。この試合、おやめ下さいまし。
もしも小次郎さまがお敗れになられでもしたら…。

朱美の一生の願いでございます。
此度だけは、どうぞ、朱美の願いをお聞き届け下さいまし」

小次郎の腰に手を添え、はらはらと涙を流しながらに、朱美が訴えた。

「埒もないことを…。身共が負ける、と申すか。ムサシ如きに、負けると。
朱美、血迷うたか! この小次郎に勝てる者など、この日の本におるものか。

くく…案ずるな、朱美。此度の試合が終われば、大層なご加増があるとのこと。
うん、朱美。なにが所望じゃ? ゆるりと考えておけい!」

庭に飛び出した小次郎、手にした長剣でもって、朱美の丹精込めた椿の枝を、秘剣燕返しで斬り落とした。
試合前日において、これほどに饒舌な小次郎を知らない朱美だった。
なにやら危うさを感じもする、朱美だった。
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