ムサシ・ひとり
小次郎は苛立ちを感じつつも走り続けた。

「臆したか、小次郎!」
ムサシから、半歩遅れる度に怒声がふりかかる。

思わぬ事だった。恥辱だった。未だ嘗て一度たりとも相手に臆したことのない小次郎だ。
否、相手方の逃げ腰を非難する小次郎だった。

試合前において人々の口の端に上る言葉は、皆一様だった。

「此度も小次郎殿の勝ちよ。はてさて、一体どれ程の時がかかるものか…。
いやいや、臆することなく挑めるかどうか…」

なのに今、その言葉がムサシによって、小次郎に放たれた。
町の辻々で交わされた言葉は、小次郎の負けばかりが囁かれていた。

「今度ばかしは、小次郎さまとて叶うまい。何せ相手は、あのムサシだ」

しかし小次郎には、それでも確固たる自信があった。
“吾の燕返しから逃れられる者など、この世におるものか! 彼の摩利支天でさえも、だ。”

「約束の刻限に遅れるとは、何ごとぞぉ!」

長剣を右手に持ち、鞘を投げ捨て、小次郎は走り寄った。

しかし波打ち際を走り続けるばかりのムサシに、その場に止まって決しようとする気配はない。
小次郎に罵声を浴びせながら、唯々走る。

次第に小次郎の体力が奪われていく、胆力が失われていく。
野生児のムサシ、策士なり!
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