史上最低のハッピークリスマス
【史上最低のハッピークリスマス】

 狩屋麻子が、毎週火曜日と金曜日にボクシングジムに通っているというのは、この小さな印刷会社の中では、社員全員が知っている事実だった。

 社員全員と言っても、社長を含めてたった10人の小さな会社だ。

 一応事務の仕事を担当しているのだが、麻子はじっと机に座ってパソコンのキーボードを叩いているよりも、梱包された重たい印刷物をトラックに積み込む作業の方が似合っている、と、みんなが思っている。

 実際、麻子本人も身体を動かす事が好きだったし、椅子に座ってばかりいると、腰が痛いし目は疲れるし、苦痛にすら感じてくる。

 ただ、この会社はこれ以上ないという程アットホームで、よく世間で言われている人間関係の悩みというのは、皆無だった。

 そんな雰囲気が麻子は好きだったし、そのおかげで中途採用の麻子も、会社に馴染むのに、そんなに時間はかからなかった。

 麻子は元々、人見知りするようなタイプではないのだ。


「麻ちゃん、今日はジムに行く日だねぇ」


 明日の土曜日から三連休が控えている金曜日の終業間際、事務所の一番奥で机に座っている社長が、ふと声をかけてきた。

 もうそろそろ70歳になろうかという、その割には髪の毛も黒くてふさふさで、実年齢よりは少し若く見える。

 今日の仕事を一通り終わらせて、着替え一式が入っているナップザックを自分の机の足元から引っ張り出しながら、麻子は社長の方に顔を向ける。


「はい、そうですよ」


 社長はにこにこ顔で、こっちを見ていた。

 もう今年も終わろうとしていて、いつ雪が降ってもおかしくない時期だというのに、社長は真っ黒に日焼けしている。

 趣味がゴルフなのだそうだ。

 この社長も、身体を動かすのが好きなタイプだ。


「今度、私も一緒に行こうかなぁ。冬の間、どうも体力が落ちてしまうし」

「あたしがやってるのは、キックボクシングですよ?」


 よっこらしょ、と、ナップザックを机の上に置きながら、麻子はまじまじと社長の顔を見つめた。

 ジムに一緒に行く事には、何の抵抗もないのだが…社長がぎっくり腰にでもなって、仕事に支障が出る原因を作るのは、少し気が引ける。


「ダメかねぇ?」


 そんな麻子の気持ちを知らないで、社長はにこにこ顔で聞いてくる。


「ダメです。ハードすぎます」


 分かってないなぁ、と思いながら、麻子はキッパリと言ってやった。

 そうかねぇ、と社長が呟いた時、事務所のドアが開く。


「うー寒い! 事務所の暖房、経費削減しすぎてるんじゃないの、社長?」


 事務所に入るなり、1つだけついている石油ストーブにしがみつくような勢いでわめき散らす男。

 まぁこれが、この会社の日常なのだから、もうツッコミを入れる気にもならないが。
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