君と歩いていく道

時間

記憶は色あせないというのなら、信じてみたいとこのときばかりは思った。

大学を卒業して、外科医として附属病院に勤務していた押谷の前に運ばれてきたのは、血塗れになって意識の無い、別れた恋人だった。

救急車で運ばれてきた真崎の左手首には、刃物でつけられた傷がいくつもあった。

明らかな自殺未遂の痕。

出血の量は多く、呆然としてしまった押谷の目の前で輸血や処置が行われていく。
押谷だって、本来ならいち早く処置を行わなければならない立場だ。

手が動いてくれないのは、患者が真崎で、傷口が左手首だから。

彼女はピアニストとして交響楽団に入ったばかりのはずだし、自殺を考えるような環境ではない、いわゆる〝成功者〟の部類だと思っていた。

押谷の手が止まって動かないのを看護師が見かねて声をかけ、ようやく手術に踏み出すことができる。
それでも、彼の心は疑問でいっぱいだった。

出血の割に傷は浅く、数針縫って終わりになる。
駆け出しと呼ばれる外科医だったが、それぐらいの手術は任されるようになっていた。
あとは麻酔と、真崎本人が手首を切った直前に飲んでいたと思われる、睡眠薬が切れるのを待つだけ。
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