君と歩いていく道
涙は零れない。
心の中心で真崎を動かしていた感情は、悲しみではなくて、何も出来ない自分への苛立ちだから。

「いじめてなんか、ないよ。」

「そう見える。」

紺野は腕の力を緩めた。
視線を彼女の手にやれば、ごまかしが利かないほどにふるえる手が、鍵盤の上に力無く乗っている。

夕方、何があったのかはまだ聞けていない。
だが良くない事なのは、分かっている。
真崎の荒れたピアノを聞いて、予想は確信になった。

ダラリと手を鍵盤からおろし、知らぬ間にいからせていた肩の力を抜いた。
肩は吊って、おかしな痛みを伴った。

「‥‥光博。」

紺野の腕は、どれだけトレーニングをしても、右腕のほうが左腕よりも、やや太い。
骨ばった手は、ラケットで出来たたこで硬くなり、親指の付け根には、真崎の刃を止めたときについた傷跡が、まだ残っている。

厚い胸板に背中を預け、目を閉じる。
何をしても彼を傷付けることしか出来ない自分が、悔しくてたまらない。

「そばにいたい。」

突然の言葉に動揺することなく、低い声でああ、と、答える。

「ずっと、そばにいたい。」

「いてくれ。」

手が離れたピアノのふたを閉め、真崎を抱き上げて、ピアノから離す。
そのまま防音室を出て、リビングのソファーへおろした。
隣に座り、黙ったままで、彼女が話し出すのを待つ。

言葉は巧くない。
だが、真崎にはそれが嬉しかった。

自分を包み込む、心地よい感情にうっとりする。
荒れた心が、みるみる穏やかに凪いでいく。

言葉が見つからず、何も言えない代わりに、自分からキスをした。

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