君と歩いていく道
言いたいことだけ言って、母親はさっさと帰ってしまった。
いつものことだ。
それなのに今日はそれで終わらせたくなかった。

もっと心配してほしい。

せめてそういった台詞だけでもいいから、一言。
どこか期待していたのだ。
『体の調子はどうですか?』と、たった一言かけてもらえることを。

あの冷たい視線から解放された安堵と、心配の言葉さえかけてもらえなかった落胆がせめぎあう。

こうやって感情が整理できない時は、ピアノをひたすら好き勝手弾くのが常だった。
しかし、それさえも出来ない。

のろのろとおぼつかない足取りて、体は勝手にピアノの前に向かうが、鍵盤の上の手は震えるばかりで、触れることさえ叶わない。

ガン、ガンと、ピアノのふちに手を叩きつける。何度も何度も繰り返すが、痛みは感じなかった。

弾きたい。

こんなにも自分を苦しめるものなのに、弾きたい気持ちは消えて無くならない。
だから余計に苦しい。
手は商売道具だと大切にしてきていたが、今では傷だらけ。
この打ち身だらけの腫れ上がった手では、指もうまく動かない。
ただでさえ、もうずっと練習が出来ていないから、取り戻すのにどれだけかかるのか不安だ。

「・・・もう、いいや。」

やめよう。
やめられるなら、やめてしまおう。
全部。
今なら捨てられる気がする。

何度も思った事だったが、いつも支えてくれた恋人や幼馴染みの顔が浮かんできては、決意を邪魔した。
しかし今日は全く怖くない。

軽くなった足取りで、口許は緩み、気分は良かった。
こんなにすっきりとしたのは、本当に久々だ。

どこから出したのか、いつの間にか手にはナイフが握られていた。

そして。



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