君には聴こえる
きゅっと唇を噛んで、拳を固く握り締める。決して涙を零したりしないように。
忘れよう、今日限り。
もう一度言い聞かせると、深呼吸して振り向いた。
一歩踏み出すのと同時に、目の前を過る黒い影。危うくぶつかりそうになって仰け反る私の目に映ったのは、スーツを着た若い男性。
私と同じように上体を反らす姿は、まるで鏡を見ているのかと思うほど。
驚いたのは、それだけではない。
彼の顔を見て、思わず息を飲んだ。
さっきまで必死になって消そうとしていた記憶の中の面影に縋りついた。消えてしまわないように。
まだ、消すのは早い。
きょとんとした彼の顔が、間近にある。息が触れそうなほどの距離。
私は記憶の中の彼ではなく、目の前にいる彼に縋りついていたのだと、ようやく気づいた。
「君は、あの時の?」
彼の唇から零れた声は、あの時聴いたのと同じ。