【完】『碧(あお)の十字架』
2
雨は止んで、晴れていた。
蹴上から九条山の道をくねくね走り、着いたのは山科の大日堂である。
山科、といっても東山の将軍塚の展望台に近い。
生まれて初めて、みなみはバイクでタンデムをしたのだが、碧城が貸してくれたヘルメットと手袋のおかげか、思ったより寒さは感じずに済んだ。
すでに、夕刻である。
「わぁ…きれい」
みなみが思わず歓声をあげた。
「みんな夜景いうたら将軍塚行きよるけど、俺はこっちの方が好きやなぁ」
穴場やしな、と碧城はいたずらっぽくはにかんだ。
「何か嫌な気持ちになったり、仕事が進まんくなったりしたら、ようここに来るのや」
陽射しは暮れ泥んで、空は橙から紫、紺、黒と次第に変じてゆく。
麓の街は白や山吹色の街灯が点って、澄んだ空気にきらきらと宝飾を散りばめたような輝きを放っていた。
(どうして)
こんなにも素敵な光景の在り処を知る碧城に、恋人がいないのか、みなみは不思議で仕方なかった。
風が吹いてゆく。
「寒くなってきたから、帰ろっか」
「…うん」
少し不満ではあったが、みなみはおとなしく手袋をはめた。
数日後。
昼休みになった。
いきなりミカが、みなみのいた窓際まで廊下を駆けてきた。
「…みなみ!」
「ん?」
「…碧城センセとデート、したんだって?」
「うん」
笑顔でみなみは答えた。
途端に。
あー…とミカは、まるで羊か牛の間延びした鳴き声のような奇妙な声をあげてしまった。
「碧城センセ、ちょっと色々あって、実は複雑なんだよね…」
先に話しとけばよかった、とミカは後悔しきりな様子で溜め息をついた。
「ちょっとあれこれあって詳しく話せないんだけどさ…」
もし諦めるなら今のうちだよ…ミカは必死に、真剣にみなみを心配するような言い方をした。
「なんで? 碧城さん何も悪いこと何もしてないじゃない!」
「あー…手遅れかー」
察したらしく、
「…分かった、もう反対はしない。応援する」
何か覚悟を決めたような顔で、ミカは言った。
冬休みの初め。
みなみたちの学校でクリスマス前に行われる、ページェントと呼ばれる無言劇が無事に終わったのもあって、一様にホッと出来る時期でもある。
珍しくみなみから碧城に連絡して、待ち合わせたのは河原町四条の阪急百貨店の前である。
「…みなみちゃん、どないしたんやろか?」
勝手がわからないまま碧城は佇んでいた。
そこへ。
みなみがやって来た。
真っ白なピーコートが、目に眩しい。
「呼び出してごめん」
「何か、会って話したい事あるってメールで言うてたやろ?」
近くに知ってる喫茶店あるから行こか、というと、信号を渡って永楽屋の見える角を四条大橋の方へ歩き出した。
入ったのは高瀬川の畔の、青い屋根が目を引く町家風の古い喫茶店である。
中は青い照明と葡萄の彫刻が目に鮮やかで、
「わぁ…」
みなみは大人の世界に迷い込んだ気がした。
壁の東郷青児の絵画が印象的で、
「まぁたまに打ち合わせで使うんやが」
というと、翡翠色の革張りの椅子に向かい合ってみなみと碧城は腰かけた。
みなみが紅茶を、碧城がゼリーポンチを頼むと、再び店は静かになった。
「ほんで、話って」
「あの、ミカから聞いたんだけど…」
みなみは切り出した。
「…それか」
一口、水を含んだ。
「いつかみなみちゃんには訊かれるやろな…とは思っとった」
紅茶が来た。
「みなみちゃん、今年十六やったっけ」
「…うん」
「じゃあ生まれる前かも知らんな」
カラフルなゼリーポンチが来た。
キウイをかじってから、
「みなみちゃん…昔、神戸で大震災があったのは知っとる?」
「はい」
「あれで俺には後悔しとることがある」
「後悔…?」
みなみは首をかしげた。
あの頃。
当時まだ大学の二回生であった碧城は、当時の恋人と成人式の日に喧嘩をしてしまった。
「実家が鷹取やってん、腹立ったんか帰ったらしくてやな」
ゼリーを口に放り込んだ。
「次の日電話すら出てもらえんくて」
友達と相談ついでに飲みに出かけ、帰って寝ていた折に突き上げるような縦揺れが来た。
「頭に辞書が降ってきて死にそうになって、でも助かったんや」
が。
「彼女は?」
「消息がわからんくて、神戸まで捜しに行ってな」
すると。
「彼女の実家が焼け落ちとって、探してたらこれが出てきた」
と、襟を開いて取り出したのは、黒い十字架のネックレスのようなものである。
「焼けてるから黒いけど、一応これ銀製や」
彼女はクリスチャンで、どうやらもとは、ロザリオであったらしかった。
「あいつに謝らんまま、こんな別れ方になって、それ以来」
何度か恋もし何人か付き合ったが、忘れられんかった…碧城はゼリーポンチのサイダーを飲んだ。
首に提げた十字架は、どうやらその後悔を忘れないためのものであろう。
みなみは、黙っていた。
ついでながら喫茶店は音楽がかかっていない。
数秒間かも知れないが、長く重い沈思が流れた。
「…あのね」
みなみは重い口を開いた。
「私だけかと思ってた」
みなみも、先だっての津波で実家を流され、弟を亡くしている。
「私だけじゃ、ないんだよね」
「みなみちゃん見とったら、必死に前向いて生きてるやん?」
「…うん」
「それが痛々しくもあり、でも健気やった」
何かを失ってゆくのは、何かを得る対価かもな…そう言うとタイルのように色彩鮮やかなゼリーを流し込んだ。
クリスマスが近い。
イメージに似合わず教会があちこちにある京都では、クリスマスは身近な人や親しい人と過ごす、家庭的な日でもある。
みなみは碧城をデートに誘った。
「たまにはさ、女の子とデートでもしないと」
いい作品できないよ、とみなみは言った。
「そういうもんなんかな」
碧城は苦笑した。
クリスマスを控えた連休の初日。
碧城とみなみは鞍馬口の駅で待ち合わせ、烏丸線で京都駅に出て、烏丸塩小路の交差点を渡ると京都タワーに登った。
もう夕方で、ちらほら灯りが点き始めている。
京都に移って随分になった碧城だが、京都タワーはついぞ登ったことがない。
「意外と、住んでると登らないものだよね」
みなみは笑った。
碧城とみなみは、しばらく鮮やかな夕陽を眺めていたが、
「碧城さんはさ、心の傷ってどのぐらい経てば癒えると思う?」
みなみは訊いてみた。
「うーん」
と言ってから碧城は、
「本人次第やが」
と前置きした上で、
「死ぬまで傷痕は残ると思う」
でも、と碧城は続け、
「一、二の三ハイって忘れられるもんでもないやろ? でも後ろばっかり向いてたら、前には進まれへんしやなぁ」
そこが、折り合いの付け所なんかもな、と碧城は言った。
「そうなのかなぁ」
みなみは首をかしげた。
「私が前を向いてる、って以前、碧城さんは言ったよね?」
「うん」
「私さ、京都に来て新しい目標出来たさ」
「ん?」
みなみは碧城の右腕にみずから左腕を組んできた。
「こうやって、碧城さんのそばにいること」
それがどうやら目標らしい。
「…おぉきに」
少し骨張った碧城の左手が、みなみの頭を撫でた。
「過去を忘れないために、前に歩いて行くってのも私はあると思う」
「…かも知れんわな」
いつもの少しとぼけた口ぶりで碧城は言った。
「いい作品産み出したいから、みなみにはくっついてもらわなあかんな」
みなみと碧城は、空が暗くなるまで長いこと、寄り添っていた。
(完)
蹴上から九条山の道をくねくね走り、着いたのは山科の大日堂である。
山科、といっても東山の将軍塚の展望台に近い。
生まれて初めて、みなみはバイクでタンデムをしたのだが、碧城が貸してくれたヘルメットと手袋のおかげか、思ったより寒さは感じずに済んだ。
すでに、夕刻である。
「わぁ…きれい」
みなみが思わず歓声をあげた。
「みんな夜景いうたら将軍塚行きよるけど、俺はこっちの方が好きやなぁ」
穴場やしな、と碧城はいたずらっぽくはにかんだ。
「何か嫌な気持ちになったり、仕事が進まんくなったりしたら、ようここに来るのや」
陽射しは暮れ泥んで、空は橙から紫、紺、黒と次第に変じてゆく。
麓の街は白や山吹色の街灯が点って、澄んだ空気にきらきらと宝飾を散りばめたような輝きを放っていた。
(どうして)
こんなにも素敵な光景の在り処を知る碧城に、恋人がいないのか、みなみは不思議で仕方なかった。
風が吹いてゆく。
「寒くなってきたから、帰ろっか」
「…うん」
少し不満ではあったが、みなみはおとなしく手袋をはめた。
数日後。
昼休みになった。
いきなりミカが、みなみのいた窓際まで廊下を駆けてきた。
「…みなみ!」
「ん?」
「…碧城センセとデート、したんだって?」
「うん」
笑顔でみなみは答えた。
途端に。
あー…とミカは、まるで羊か牛の間延びした鳴き声のような奇妙な声をあげてしまった。
「碧城センセ、ちょっと色々あって、実は複雑なんだよね…」
先に話しとけばよかった、とミカは後悔しきりな様子で溜め息をついた。
「ちょっとあれこれあって詳しく話せないんだけどさ…」
もし諦めるなら今のうちだよ…ミカは必死に、真剣にみなみを心配するような言い方をした。
「なんで? 碧城さん何も悪いこと何もしてないじゃない!」
「あー…手遅れかー」
察したらしく、
「…分かった、もう反対はしない。応援する」
何か覚悟を決めたような顔で、ミカは言った。
冬休みの初め。
みなみたちの学校でクリスマス前に行われる、ページェントと呼ばれる無言劇が無事に終わったのもあって、一様にホッと出来る時期でもある。
珍しくみなみから碧城に連絡して、待ち合わせたのは河原町四条の阪急百貨店の前である。
「…みなみちゃん、どないしたんやろか?」
勝手がわからないまま碧城は佇んでいた。
そこへ。
みなみがやって来た。
真っ白なピーコートが、目に眩しい。
「呼び出してごめん」
「何か、会って話したい事あるってメールで言うてたやろ?」
近くに知ってる喫茶店あるから行こか、というと、信号を渡って永楽屋の見える角を四条大橋の方へ歩き出した。
入ったのは高瀬川の畔の、青い屋根が目を引く町家風の古い喫茶店である。
中は青い照明と葡萄の彫刻が目に鮮やかで、
「わぁ…」
みなみは大人の世界に迷い込んだ気がした。
壁の東郷青児の絵画が印象的で、
「まぁたまに打ち合わせで使うんやが」
というと、翡翠色の革張りの椅子に向かい合ってみなみと碧城は腰かけた。
みなみが紅茶を、碧城がゼリーポンチを頼むと、再び店は静かになった。
「ほんで、話って」
「あの、ミカから聞いたんだけど…」
みなみは切り出した。
「…それか」
一口、水を含んだ。
「いつかみなみちゃんには訊かれるやろな…とは思っとった」
紅茶が来た。
「みなみちゃん、今年十六やったっけ」
「…うん」
「じゃあ生まれる前かも知らんな」
カラフルなゼリーポンチが来た。
キウイをかじってから、
「みなみちゃん…昔、神戸で大震災があったのは知っとる?」
「はい」
「あれで俺には後悔しとることがある」
「後悔…?」
みなみは首をかしげた。
あの頃。
当時まだ大学の二回生であった碧城は、当時の恋人と成人式の日に喧嘩をしてしまった。
「実家が鷹取やってん、腹立ったんか帰ったらしくてやな」
ゼリーを口に放り込んだ。
「次の日電話すら出てもらえんくて」
友達と相談ついでに飲みに出かけ、帰って寝ていた折に突き上げるような縦揺れが来た。
「頭に辞書が降ってきて死にそうになって、でも助かったんや」
が。
「彼女は?」
「消息がわからんくて、神戸まで捜しに行ってな」
すると。
「彼女の実家が焼け落ちとって、探してたらこれが出てきた」
と、襟を開いて取り出したのは、黒い十字架のネックレスのようなものである。
「焼けてるから黒いけど、一応これ銀製や」
彼女はクリスチャンで、どうやらもとは、ロザリオであったらしかった。
「あいつに謝らんまま、こんな別れ方になって、それ以来」
何度か恋もし何人か付き合ったが、忘れられんかった…碧城はゼリーポンチのサイダーを飲んだ。
首に提げた十字架は、どうやらその後悔を忘れないためのものであろう。
みなみは、黙っていた。
ついでながら喫茶店は音楽がかかっていない。
数秒間かも知れないが、長く重い沈思が流れた。
「…あのね」
みなみは重い口を開いた。
「私だけかと思ってた」
みなみも、先だっての津波で実家を流され、弟を亡くしている。
「私だけじゃ、ないんだよね」
「みなみちゃん見とったら、必死に前向いて生きてるやん?」
「…うん」
「それが痛々しくもあり、でも健気やった」
何かを失ってゆくのは、何かを得る対価かもな…そう言うとタイルのように色彩鮮やかなゼリーを流し込んだ。
クリスマスが近い。
イメージに似合わず教会があちこちにある京都では、クリスマスは身近な人や親しい人と過ごす、家庭的な日でもある。
みなみは碧城をデートに誘った。
「たまにはさ、女の子とデートでもしないと」
いい作品できないよ、とみなみは言った。
「そういうもんなんかな」
碧城は苦笑した。
クリスマスを控えた連休の初日。
碧城とみなみは鞍馬口の駅で待ち合わせ、烏丸線で京都駅に出て、烏丸塩小路の交差点を渡ると京都タワーに登った。
もう夕方で、ちらほら灯りが点き始めている。
京都に移って随分になった碧城だが、京都タワーはついぞ登ったことがない。
「意外と、住んでると登らないものだよね」
みなみは笑った。
碧城とみなみは、しばらく鮮やかな夕陽を眺めていたが、
「碧城さんはさ、心の傷ってどのぐらい経てば癒えると思う?」
みなみは訊いてみた。
「うーん」
と言ってから碧城は、
「本人次第やが」
と前置きした上で、
「死ぬまで傷痕は残ると思う」
でも、と碧城は続け、
「一、二の三ハイって忘れられるもんでもないやろ? でも後ろばっかり向いてたら、前には進まれへんしやなぁ」
そこが、折り合いの付け所なんかもな、と碧城は言った。
「そうなのかなぁ」
みなみは首をかしげた。
「私が前を向いてる、って以前、碧城さんは言ったよね?」
「うん」
「私さ、京都に来て新しい目標出来たさ」
「ん?」
みなみは碧城の右腕にみずから左腕を組んできた。
「こうやって、碧城さんのそばにいること」
それがどうやら目標らしい。
「…おぉきに」
少し骨張った碧城の左手が、みなみの頭を撫でた。
「過去を忘れないために、前に歩いて行くってのも私はあると思う」
「…かも知れんわな」
いつもの少しとぼけた口ぶりで碧城は言った。
「いい作品産み出したいから、みなみにはくっついてもらわなあかんな」
みなみと碧城は、空が暗くなるまで長いこと、寄り添っていた。
(完)