猫と宝石トリロジー ②エメラルドの絆
エレベーターを待っていると、背後から躊躇いがちな声がした。
「初花よね?」
久し振りに聞くその声にビクッと体が震えた。
一度深呼吸してからゆっくり振り返る。
「お久しぶりです、お母さん」
子供の頃から見慣れた白衣姿の母、月子(つきこ)に軽く頭を下げて、またエレベーターの方へ体を向き直る。
「どうしたの?どこか具合が悪いの?」
隣に並んで顔を覗き込まれるので、首を振った。
「違います。知り合いのお見舞いに来てもう帰る所です」
何年もまともな会話をしていない娘の他人行儀な口調に月子は内心で苦笑いした。
「……そう。それにしても久し振りね。ちょっと痩せたんじゃない?」
娘の頬に触れようと伸ばした手を空で握りこぶしにし、白衣のポケットに入れる。
「仕事柄、ずっとこの位です」
ううん、違う。
先月号の雑誌ではもう少し頬に膨らみがあったもの。
娘が専属モデルをつとめる雑誌は定期講読し欠かさず見ているからわかる。
「何か困った事はない?ちゃんと食べてるの?」
「お母さん、私もう28です」
「自分の娘の年くらい知ってるわよ」
そう。あの天使のように可愛かった初花はもう28になってしまった。
この年になってようやく子供達との取り戻せない時間を悔やんでいるなんて、自分でも己の愚かさに笑ってしまう。
「そうですか」
会話が途切れ気まずい空気が流れる。
中々こないエレベーターに初花はイライラした。
口には出さなかったけれど、初花が医者になるのを強く望んでいた母の期待を裏切ってから、二人の間の会話はそれまで以上に減っている。
「今度、四人で食事でもしましょう」
母の言葉に初花は軽く驚いた。
「全員の予定が揃うことなんて出来るの?」
嫌味ではなく、心からの疑問だ。
最後に家族が四人揃ったのは祖父の葬儀で、何とか三人は揃っていた盆暮れ正月でさえ、兄が医大に通いだしてからは集まることをやめてしまっていたから。
「お父さんも写真じゃないあなたに会いたがっているのよ、あなたの都合に合わせるから連絡してちょうだい」
それが母の言葉とはにわかに信じられず、
胸の奥がざわざわした。
「お父さんどこか具合が悪いの?」
「嫌ね、なに言ってるのよ」
初花はそこで初めて母の顔をしっかり見た。
お母さん、年を取ったわ
明るく朗らかな態度で患者さんを安心させていた綺麗な母の顔に、いつの間にかこんなに皺が出来ている。
「初花、何か困った事があればいつでも帰ってきなさいよ、あなたの部屋はそのままにしてあるんだからね」
内心の驚きと複雑な想いを隠して、初花は頷いた。
エレベーターが到着する音がして扉が開く。
「連絡待ってるからね」
乗り込む背中に母の声が優しくかかり、なぜだか泣き出しそうになって振り返らずに初花は『わかった』と答えた。