ウェディング・チャイム
エントランスにはもう、甲賀先生の姿は見えない。
慌てて郵便受けを見たら、小さく「甲賀」と書かれたシールを見つけた。
206号室、ということは2階。
階段を駆け上がろうとしたけれど、普段めったに履かないヒールが存在感を思いっきり主張するような音を出しているのが気になった。
こんな深夜に住人でもない私が、騒音を出すわけにはいかない。
できるだけ静かに、でも急いで階段を上がろうとした、その時。
「藤田ちゃん?」
「はっ!? はいっ!!」
階段の一番上から、いきなり声をかけられて、びっくりした。
「もしかしたら、俺のスマホ、届けに来てくれた?」
「そうです! はい、これですっ!!」
酔っ払いの甲賀先生にはこれ以上できるだけ動いて欲しくない……早く渡さなくちゃ。
気が急いていた私と、受け取ろうとした甲賀先生の動きが、一瞬重なり合った。
「あっ!!」
私の手と甲賀先生の手がぶつかり、スマホが階段の手すりから下へ。
ほぼ二階と同じ高さから、一階に叩きつけられてられてしまったそれを、私は慌てて取りに行く。
どうか、壊れていませんように!!
伏せられた状態で落ちているスマホを、祈るような気持ちでひっくり返す。
……私の祈りは届かず、スマホの画面には、見事なひび割れが出来ていた。
すっかり酔いが醒めたような表情で降りてきた甲賀先生に、そっと手渡す。
一瞬、驚いたような顔をしたあとで、静かに電源のボタンを押している甲賀先生。
残念ながら、ボタンを長押ししても、画面は真っ黒なままだった。
「すみません! 私がちゃんと持っていたら良かったのに……」
「あー、いいって。もとはと言えば、俺が忘れたのがいけないんだからさ」
「でも、私が落とさなければ壊れなかったのに……ああもう私って何でいつもこうなんだろう……ごめんなさい」
「あのさあ、藤田ちゃん、明日ヒマ?」
「……? ヒマ、ですけど」
いきなり違う話になってしまい、困惑しつつ甲賀先生の顔を見ると、甲賀先生も視線をスマホから私に移していた。
「俺と一日付き合って。まずは十時にケータイショップで機種変。だいたい二時間位待たされるだろうから、一緒に暇つぶししよう。で、昼飯食ってから何するかはこれから考える。どう?」
まるでいつもの学年打ちあわせのような淡々とした話し方だったけれど、今回私に断る権利はない。
「わかりました。明日九時半頃、私の家まで迎えに来てもらってもいいですか?」
「了解。じゃあ、デニム以外の服装でよろしく」
笑顔で言われた。きっとまた『デート』とか言い出すに違いない、この人は。
話がまとまったところで、タクシーに戻った。
長時間待たせてしまったので、スマホを壊してしまったことも運転手さんに打ち明けた。
これで、変な噂が流れなきゃいいけれど。